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昔 ピープルという ビデオレンタル屋がありました 都築さまより<a href=http://roadsidediaries.blogspot.com/2009/11/blog-post_11.html>ビデオ・スターの死</a>

ラッパーズ 2


ラッパーズ 下北沢屋根裏 - YouTube

87年、原宿歩行者天国「続・国家秘密法大反対ギグ」で
衝撃的なデビューを飾ったラッパーズは、続けて日本全国をツアー。
そして日本中のパンクスに熱狂的に迎えられた!

・・・と言うのは嘘である。

都内のライブハウスで、
仲間内の企画やライブハウスのブッキング(無茶苦茶な寄せ集めが多い)
などに出演し、知った顔ばかりの客の前で、地味にライブを続けた。

が、やってるうちに、だんだん知り合いも来なくなる。
顔を売ろうにも、
仕事柄(僕も学生の身分から、
レンタルビデオ店「ピープル」の雇われ店長に出世?していた)
平日の方が休み取りやすかったので、
人の集まりにくい平日の夜にしか出演出来ない。
だんだん、対バンの客もあわせて、
会場には2~3人しか居ない様な感じになってきたが、それでも淡々と続けた。


ライブのある日は、だいたい昼すぎに起きて、
ノロノロと用意をし、
笹塚駅前でビールをひっかけて、
タクシーで会場になるライブハウスに移動する。
僕はヴォーカルなので楽器はないのだが、
メンバー5人分の衣装とカツラを運んでいたので、結構な大荷物なのだった。

あの衣装どこ行ったんだろ?

カツラは2個ぐらいは残ってるけど。

午後3時ぐらいに会場入りぐらいか?
で、ノロノロとリハ。
大抵は5つぐらいも対バンが居るので、結構時間がかかる。
リハーサルでは「リハーサル」っていう、
リハーサルでしかやらない曲を演奏。

なるべくすぐ終える。
そして、ご飯。
回転寿司に行くことが多かった(高円寺の場合は回らない「桃太郎寿司」!)。

そして、呑む、飲む、ノム!

開演時間が午後6時半とかだから、そうでもしないと間が持たないのだった。
そして、開演前から長時間飲み続けた結果、
ライブ前に酔いつぶれて寝てしまう・・・。
出番直前にメンバーにたたき起こされてすぐライブ!

寝起きはいい方なので。

まあ、だいたい、ギターのショウジくんもベロベロだった。
ライブが終わって汗だらけ、時には血だらけの服を着替えて!
「よし打ち上げ!」となる。

乾杯!!

そして気がついたら又寝ている。

帰りのタクシーの中・・・。
「今度のライブもがんばろう」と思う。
これが、僕の「ライブの日」の一日のパターンである。
今も基本的には変わらない。

下北沢「屋根裏」、渋谷「ラ・ママ」、新宿「アンチノック」、
吉祥寺「曼荼羅」、西荻「ワッツ」、吉祥寺「クレッシエンド」。
そして、当時できたばかりの高円寺「20000V」!
そう、
ラッパーズはあの映画「爆裂都市」から名前を取ったライブハウス
「20000V」に一番出た気がする。
もう、焼けて無くなってしまったけど
(今は”東高円寺”「20000V」として復活している)。
地下3階にあって、せまい楽屋しかなかったので、
出演者はみんな、
当時地下2階にあったゲームセンターや階段にたむろしていた。
その後、ゲームセンターは潰れて、同系列のライブハウスになった。
高円寺「屋根裏2」。
その後の「GEAR」である。

やっぱりライブハウスと言うと、今も昔も、高円寺か下北沢が本場だ。
まがりなりにも東京出身だった僕は、
たまには新宿や渋谷には遊びにいくこともあったけど、
実はバンドを始めるまでは高円寺や下北沢は縁遠い街だった。
地方出身の知人によると、版型が小さかった頃の「宝島」なんかでは、シモキタも高円寺も随分紹介されていて全国区的な知名度があったらしいから、結構不思議な話だ。
今考えるに、映画館が無かった
(もしくは、僕があの街に映画館があったことを知らなかった)からだろう。

僕は、バンドを始めるまでは映画少年だったのだ。

今なら、シモキタにも「トリウッド」っていう短編専門の映画館が
古着屋「シカゴ」の上にある。
あと、ちょっと前はディスクユニオン並び、
演劇劇場スズナリの横に「下北沢シネマ」ってのがあったけど、
あそこはあっというまに演劇小屋になっちゃったな。
「演劇の街」として有名なのに、映画館は冷遇されてるのかなあ。
高円寺は文化的なものなら何でもある街の様な気がするけど、
映画館はやっぱり無いのだった。

なんでだろう。

下北沢は、今も昔も、演劇関係者がよくいくバアやスナック?
が沢山立ち並んでいる猥雑な町だ。

僕はその手の店には行ったことはないけどね・・・。
ライブが終わるとバンド関係者は大体、
「屋根裏」近くの高架先の「はしごや」って居酒屋にいって、
バケツに入ったチューハイを飲んでいた。
そこは後に「ハイラインレコーズ」になった。
今じゃ「ハイライン」も無くなっちゃったけど。
「はしごや」じゃなかったら、
一本向こうの道で店の前に踏み切りの信号のある居酒屋!

って言ってもわからないか。

3階建てのデカイ店!って言っても余計わからないか・・・

そこは朝までやっていたので、よく行ったなー。
あとシモキタには200円ラーメンの店もあって、そこにも時々行ってた。

経営者夫婦は普通の人なんだけど、夫婦の兄貴(兄貴分なのか本当の兄弟なのかわからないけど、とにかく兄貴と呼ばれていたのだった)が常にキレながら接客をしていた。
椅子蹴っ飛ばしたりとか、そういう間接暴力接客。
ひどい店だったなー。

ラッパーズについては

ここ にも!

ちなみに

2014年8月2日 江川 くん祭り と題して

 ビックEのライブあり!

 桜台POOL

 へらちょんぺも出る!

 マジックくんとピアニカ君で

 ビデオピープルのドキュメント のパイロット版も上映!

 くわしくは ココ

ラッパーズ デヴュー

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たぶん、そのころ屋根裏(下北沢)上のコート着てるのがショウジくん

 

大学に入学後もやってる事は同じで、僕はまたバンドを組んだ。

最初に組んだのは、またまたザ・スターリンのカヴァーバンド。
ライブの時、テラスの雨よけからダイブしたりした。
若かったから…。

そしてノイズバンド!
「玉砕ピューリタン」と言う名前だった。
このバンドでギターを弾いていたのが、
今もビックEで一緒に活動しているショウジくんで、
当時発売されたばかりのBOSSのデジタルディレイとギターアンプ2台使って、
スペーイシーかつなにがなんだかわかんなくなるハードコアメタル(?)な演奏をしていた。

僕らはノイズとは言っても学生バンドなので、ライブは学祭の時に学内でやった。
ノイズバンドのくせに、ちゃんと組まれた野外ステージで。
ゼネコンに就職したOBが居たので、イントレが借りられたのである。
それを学生が人海戦術で組み立て!
対バンは「ミミダレ」と言うやっぱりノイズバンド。
分かる人には分かるだろうけど、名前はハナタラシのモジリである。
何故か、メンバーは重複していた。
「メタルパーカション」こと、
工場から持ってきたドラムカンをガツンガツン殴るパートが
バンドに居るのが80年代スタイル!
(ちなみに小型ドリルや小型旋盤使うのは90年代スタイル)。
今でも学生ノイズバンドとかいっぱいあるんだろうなあ~。
八王子の山奥の大学ではあったが、後日、同じ野外ステージで、
リップクリームやルーズ、リアルなんかが演奏したのだった。


そんなある日、当時仲の良かったグレートリッチーズのキーボード、
ワキタ君が、長年集めた衣装を僕にゆずってくれた。
ハコを開けて愕然。
ほとんどがヒッピースタイル!
だ、ダサい・・・。
あまりのダサさにしばし呆然としていた僕だったが、ハタと思いついた。
逆に、今時だれも着ないこのダサいダサい衣装を、あえて全員着ているバンドってカッコよくないか?
ヒラヒラした衣装とか、裾がひろがったジーンズなんかを着て、ハードロックをやったらどうだろう?
あの頃、パンクとメタルの融合というのは随分あったが、そういうアプローチはなかった。
当時MC5やブルー・チアーが関西方面ではなぜかブームで、僕もよく聴いていた。
MC5ブルー・チアー、つまりはビックマフ!スーパーファズ!
売ってもらった衣装セットの中には数人分のカツラまで入っていた。
当然のごとく金髪!

僕は、この衣装やカツラを着けて、スーパーファズビッグマフな演奏をキメてくれるメンバーを探した。
ギターは玉砕ピューリタンに居たショウジくん。
もう一人のギターは巨漢のMくん(体格が立派過ぎで、合うサイズがなかなか無くて困った・・・)。
ベースとドラムも御学友。
本末転倒っぽいけど、足らない分のラッパズボン(ベルボトム)は中野の古着屋で買い求めた。
そう、バンド名は「ラッパーズ」!!!!
練習もいっぱいした。

そして、結成1ヶ月でデビュー。
1987年4月29日、当時の天皇誕生日
原宿歩行者天国続・国家秘密法大反対ギグ」!

ホコテンといっても、まだホコテンブームの前だったので、実際は代々木公園の前の歩道橋の下。
テーゼなど、かなりの数のバンドが出たので客は沢山いた。
何と言っても"国家秘密法大反対"ギグと言うポリティカルなイベントだったので、
片耳イヤホンでダサい背広、マスクのドヤ顔の公安も沢山いたんだろうけど、
ノンポリの僕は当時は全然気づかなかった。
ちなみに、母校法政の市ヶ谷校舎は中核派が多かったので、公安はかなりの数常駐していた。
あまつさえ、いわゆるカマボコ車といわれる装甲バスまで常駐。
中核派学生の監視」は大事な予算源だったのであろう。

で、ライブ!
一曲目はツェッペリンの「ロックンロール」!
あとは元祖パンク?の曲「コミュニケーション・ブレイクダウン」!
ブルー・チアーの「サマータイムブルース」
MC5「キック・アンド・ジャムス」もやったような・・・・・
当時珍しかったビデオカメラで、ライブの様子を撮影してる人もいた。
が、お調子者の僕は、歌ってる最中、そのカメラを蹴っ飛ばして叫んだ。
「ヨーコソー!」
キヨシローの影響である。



ライブは終わった。
カメラを蹴っ飛ばされた人が、マイクを掴んで
「今日の君たちの演奏は、秘密法とはまったく関係ない!ただバンドが浮かれてるだけだ」
と、イベントを総括するアジテーションをしてた。
ビール(本物、当時はニセはなかった)呑みながら
「その通り」
と僕は思っていた。

お笑いのこと 4 おしまい

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それはまさに、青天の霹靂であった。

JPC(雑誌「ビックリハウス」が主催したコンテスト。前回参照のこと)が
終わった後、
怒涛のように仕事が舞い込んできたのだ!

僕らは芸能事務所に入っていたわけではないので、
仕事は大川興行総裁・大川豊さんや、
「トレーナーで遊ぼ」「タオルで遊ぼ」などの学生演芸で一世を風靡(?)した、
東海大学近藤演芸チームたちからの紹介であった。

最初の仕事は、あの居酒屋「村さ来」が経営する、
「ライブインムラサキ」という、新宿にあったライブハウス。
そこで週一回、「学生演芸」というくくりで営業した。
大川興行東海大学近藤演芸チームのほかには、
ジーコ内山さんや、後に聖飢魔Ⅱのボーカルとして有名になった
デーモン小暮閣下(当時は素顔で本名…じゃなくて世を忍ぶ仮の姿で、
スーパースランプと言うバンドのボーカルをしていた。
ちなみにその先代のボーカルはサンプラザ中野である)
ゴジラのモノマネをしてたりした。

ギャラは、最初はちょっとだけ出たが、
その次は飲み食いタダ、
その次は飲み物だけ、
その次は薄い大入り袋、
その次はなにもなし、
とだんだんショボくなっていき、
結局「ライブインムラサキ」での仕事自体がなくなった。

しかし、当時はなぜか学生演芸がもてはやされており、
一つなくなっても、次から次へと営業やテレビのお仕事が入ってくるのだった。

新宿アルタ前での新製品のイベントや、パルコでのイベント。
テレビ出演は数知れず。

報酬は、だいたい仕事した3ヶ月ぐらい後になって、
製作プロダクションや代理店から僕らの口座に振り込まれるのだが、
なにせ3ヶ月も前の話なので、
金額的にどれがよくてどれが悪かったのかは分からなかった。
途中で色々と中間搾取があったのかもしれないが、
なにせこちらも学生演芸のシロウトなので、
どういう仕組みでカネが発生して、どこに流れていくのか全然知らなかった。

色々と小さな仕事をやったけど、
もっとも印象深かったのが日本テレビ『11PM』である。
確か、ピアニカを一発吹くごとに5000円!
芸の最中、何回も吹くので、つまり合計数万円!
当時の僕らには破格のギャラだったと思う。
なんでここだけ金額も覚えているかと言うと、
日テレから直接現金でギャラを頂いたからである。
この時の写真が残っている。

冒頭の写真はこの時のものだ。

そして、テレビの仕事でビックリしたのは「タクシー券」!
当時、僕は中央線の国立に住んでいたのだが、
遠い近い関係なくタクシー券がもらえるのだった。
イベントなどの営業は交通費が自前なのでえらい違いだ。
都内から遠く三多摩の国立まで、自分のフトコロを気にせず
タクシーで高速道路を通って帰るたび、
「テレビってすごいなあ」と思った。

誰の紹介だか忘れたが、大阪吉本の劇場に遠征もした。
それも、大学の夏休みを利用して一ヶ月近く!
なんば花月うめだ花月
多いときは、なんば、うめだ、なんば、うめだ、と一日4回出演した。

劇場間の移動は基本、電車。
プロ意識の薄い僕は、移動の際、
電車の中にピアニカを忘れたりしてた。
いい加減だったのである。

僕らが出演したのは、「フレッシュコーナー」という新人紹介プログラムであった。
楽屋も屋上のプレハブ。
トミーズなんかと楽屋が一緒になったり、
移動の際には非常階段
(キングオブノイズの方じゃなくてお笑いの方。今のシルクねえさん)と一緒になったりした。

当時人気番組だった『さんまの駐在さん』収録の前座みたいな事もやった。
1000人以上入るうめだ花月は、夏休みと言う事もあって、いつもいっぱいであった。
フラッと島田紳助さんが訪れて、ほかの人の舞台に飛び入り、
パンツ見せて帰っていったりする事もあった。

ダウンタウンも人気だった。
彼等はうめだ、なんばよりも小さい小屋・心斎橋劇場でやっていて、
そこにも僕らも出たりした。
ダウンタウンの居る楽屋に挨拶に行った時、H君は大興奮してたが、
下宿にテレビを持ってなかった僕は彼らの事をよく知らなかった。
僕は、実はそんなに演芸に興味がなかったのである。

H君は、実はいんちきマジックよりも漫才がやりたかった。
いきなり台本書いてきて、吉本の屋上で稽古をさせられた事もあった。
イヤだった・・・。
何回かやったが、所詮シロウト。
グダグダだった。

マジック自体も小さな小屋ではうけたが、
うめだ、なんばでは、満杯の客席1000人が、水を打ったように

シーーーーーーーーーーーーーン

となる恐怖体験を何回もした・・・・。
空調の音が一番大きい。
「あああああああ、わかったわかった帰れ」
という、暖かい(?)声援を貰った。

そんな駄目な僕らにも、
オッカケが数人ついていたのだから舞台の世界は恐ろしい。
数分のステージが終わると出口にいるのだ。
「出待ち」と言うヤツである。
そして、僕らとうめだ←→なんば間を一緒に移動する。
なおかつ、その度に数千円の入場チケットを購入してるんである!
そんな少女達を正直、僕は恐ろしいと思った・・・・。
申し訳なくてジュース買ってあげたりした。
芸人失格である。

吉本の社員さんは好意的で、僕らが泊まってるホテルに訪れ、
出張で行ったロンドンで見た、
本場ロンドンパンクスのオハナシをしてくれたりした。
で、酔っ払って
「ホテルなんてぶち壊して、窓からテレビ投げればいい」
なんて物騒な助言をするのだった。

そんな器がない僕らは、ショボショボした毎日をホテルで送った。
男二人、ツインの部屋に一ヶ月のカンズメ生活はとても辛かった。
最後の方は、ほとんど口もきかなくなる。
倹約家のH君は、ホテル備えつけの冷蔵庫で水出し麦茶をつくっていたのだが、
それを僕が勝手に飲んで大ケンカになった。
部屋にいてもショウガナイので、夜になると、僕は大阪中ウロウロした。
酒屋で買ったビールやウイスキーを飲みながら、街をほっつき歩くのだ。
基本、お金は無かったので、飲み屋はいけなかった。
多少貰ったギャラも、生活費や、バンドのライブチケットノルマに消えた。
移動費、宿泊費は吉本興業から出てきたが、飲食は自前だった。
唯一覚えてるのは金龍ラーメンでニンニクニラたっぷり。
誰かのおごりなら、何回か飲み屋にもいったことも。
いくよくるよ師匠がやってるお好み焼き屋さん。

『師匠』と言えば、僕はずーっとH君をふざけて「師匠、師匠」と呼んでいた。
しかし、『師匠』だらけの吉本。
いつものように僕が、
「おい、師匠早くしろよ」
などと叫んでいたら、
ホントのマジックの師匠や西川のりお師匠ににらまれた事もあった。

そんな夏休みの大阪遠征営業は、2年続いた。

帝国ホテルでの営業をしたこともある。
結婚式だった。
板付きしたH君が話し始めるのを合図に
「おいおい!ちょっと待ってくれよ!」
と、僕が空中庭園から会場に乗り込む。
ボーイさんが、うやうやしく出入り口を開けて下さる!
バカバカしいがおもしろかった!
ネタ自体はしっかりやったような気がする。
と言っても、僕はピアニカ吹いただけだけど。
ただ、「新郎新婦」のどっちがどっちだかわからなくなった。
ベロベロだったのである。
そう、僕は楽屋でビールをしこたま飲んでいたのだった。
なんかカタツムリ(エスカルゴ?)も食べた気がする。
帝国ホテルの営業はいい仕事で、お土産もいっぱいもらったなあ~。
営業の後に生涯唯一の合同コンパにいって、全部くばってしまったけど。

何回かラジオにも呼んでもらった。
そのときは「ガキガキ発狂ズ」という名前であった。
吉田照美さんの番組で、生放送前に
「その名前は?」
と聞かれたので、H君が
「子供たちが狂ったように遊ぶさまを・・」
と言いかけたら、
「お願いだから本番中にそのことを言わないで」
と、懇願された。
で、マジックやったがラジオでは無理・・・・。
見えないから。

そんな、怒涛の季節は、数年で終わった。
マジックでシュール芸をやってたい僕と、
芸人としてトークや漫才をやりたいH君。
僕もお笑いは好きだったけど、舞台で話すのは苦手だった。
また、彼は僕がバンド活動をやってるのも気に食わなかったらしく、
「音楽やりたいならそっちに専念しろ」
と、言われたこともあった。
あまりに「芸人」をやる気のない僕に愛想を尽かし、
H君は知らない間にほかの相方をみつけて活動をはじめた。

そうは言っても、コンビをハッキリと解消したつもりではないらしく、
僕はその後も何回か、彼に仕事に呼ばれた。
簡単そうにみえるがピアニカを吹くタイミングが実は結構難しく、
僕以外では上手くいかなかったらしい。
これはちょっと自慢。
「コンビを解消した」と言うより、
「フェイドアウトしていった」感じだ。


H君はその後、「へらちょんぺ」と改名した。
スイカの絵柄の下に「すかい」と書かれたTシャツを着て、
フジテレビの『ボキャブラ天国』もよく出てた。
ボキャブラ天国』には何回か、僕もネタだしにいった。
僕が考えたネタ。
「下がれ下がれ!このモンローウォークが目に入らぬか」

へらちょんぺはその頃、よく営業に「ボキャブラ座布団」を持ってきていた。
チャンピオンの証だそうである。
番組見たことないからよく知らないけど。
「僕が仕事を取ってきてるんじゃなくて、この座布団が仕事を取ってきてるんだ」
と、言っていた。

小学館の学習雑誌「小学6年生」の読者投稿欄を
へらちょんぺが担当していたこともあった。
僕も小学館のデカイ本社に呼ばれて、
夜中まで「打ち合わせ」と称したバカバナシをし、
出前で、おいしいものを食べ、
帰りはタクシー券!で帰った。
なんか夢のようだった・・・。

仙台の営業にも行った。
暇だったからついて行っただけ。
僕は呼ばれてなかったのである。
これは、流石に交通費自前。
山の中の大学だったと思う。
へらちょんぺが学生との飲み会を主催しようとしたが、
人がゼンゼン集まらなかった。
それから、仙台の繁華街に繰り出した!
宿泊は営業先の学生の家。
なんか楽しかったなあ~。
記憶がおぼろげだけど。


へらちょんぺことH君は、
最近は「服を3秒で脱ぐ」というネタで、宴会営業などで小活躍中である。

そして今でも、僕は彼に3年に一度ぐらい呼ばれてマジック(というかマジックの伴奏)をやる。
必ず、へらちょんぺ師匠は
「それでは、懐かしのマジックをやりたいと思います」
で始める。
懐かしいのは僕らだけなんだが・・・。
そして、異常なぐらい受けない・・・・・。
トホホである。

でも、あの栄光の影があるからいいさ。
ドッカンドッカン受けたのが今でも、
僕らの脳裏に走馬灯のようによみがえる。
あと、お小遣いももらえるし。

いまでも、いつでも出動できるように、
ピアニカは押入れで眠っている。

お笑いのこと 3


戸川純 レーダーマン - YouTube

ある正月、再び「テレビジョッキー」に呼ばれた。
グランドチャンピオンの栄冠にかがやいた余韻もさめて、
お笑い・・・じゃなくて手品の記憶も薄れていたころだった。

グランドチャンピオンになったときは、
「これで有名人だ!タレントだ!CM契約だ!億千万!」
と、ココロの中でワクワクしていたのだが、所詮、素人。
事務所に入ってるわけでもないので、そんなこともまったくなく、
あの時に競演したシュガーや南野陽子が、
たまにテレビで僕らのインチキ手品のネタを
マネしていたと伝え聞くぐらい・・・・・。

そんな僕らが呼ばれたのは、
「テレビジョッキー」の正月特別企画
「グランドチャンピオン大会」だった。
グランドチャンピオンが集まる大会だけあって、
かなりおもしろかったような覚えがある。
それもそのはず、
素人時代の竹中直人とんねるず柳沢慎吾などが出てたのだから。
まあ、素人だから、ダレがだれやらってカンジではあったが。

そんな後の大スターたちの中で、
僕の演奏するピアニカの高らかなファンファーレと共に、
いつものごとく
「テレッテ、テッテー、テテテェテテレッテテテテ~」
とインチキ手品を披露するHくん。
オチは、ナイフやフォークを取り出して頭上に投げ、
同時に頭を抱えて逃げる・・・・
という、シュールきわまりないネタ!
爆笑の嵐だった!

記憶では、竹中直人とんねるずを凌いで
グランドチャンピオン大会優勝したような気がするが、
違ったかもしれない。
まあ、それぐらいウケたということだ。

でも、それはそれで終わり。
なにがしかの賞品貰ってオシマイ。

その後の僕は、恋に部活にバンドにバイクに忙しかった・・・。
って、こともないけど。
のんべんだらりと高校生活を過ごしているうちに、
インチキマジックショーの事は記憶から薄れていった。

Hくんとは別々の大学に進学して、連絡は途絶えた。
まあ僕は、下宿に電話もひいてなかったし。

そんなある日、実家からはがきで
『Hくんが「連絡を乞う」と言っている』と伝えてきた。
早速、公衆電話から、連絡してみると。
Hくんは、パロディがどうの、ビックリがどうのと、
なんだかよくわからないオハナシをまくしたてるのだった。

なんだかよくわからなかったが、
久々実家に弟のピアニカと高校時代の制服を取りに戻り、
その後、渋谷でHくんと待ち合わせた。
当時、僕は渋谷といえばライブハウスの「屋根裏」や「エッグマン
に行くときぐらいしか縁がなかったのだが、
Hくんに連れて行かれたのは「パルコ」だった。
審査員がいた。
なぜか戸川純もいた。
赤瀬川原平糸井重里高平哲郎山藤章二横澤彪もいたらしい。
まったく知らなかったのである。
第8回JPC。
ジャパンパロディコンテスト。
パルコが発行していた雑誌「ビックリハウス」の
主催したコンテストである。
それのパフォーマンス部門。
そう、僕らはそのコンテストに、
グループ「マジックくんとピアニカくん」として出場したのだった。

「パフォーマンス」と言いつつも、僕らはいつもの演芸をやった。
演芸ということで、審査員からはけっこうキビシイことを言われたが、
客席はけっこうウケていた。
戸川純にも「あの演芸の人はよかったです」と、
あの声でうつむき加減で言われてうれしかった。
奨励賞をもらった。
特選は飛び入りで出た小峯隆夫。

(ビックリハウスのJPCの内容、写真)
鮫肌文殊なども出ていたらしい。
賞品はなんだったんだろ?
まったく覚えてない。
「宝島」派だった僕は「ビックリハウス」はまったく読んでなかったので、
「なんか、ノリが違うなあ」とふてくされていた。
基本あのころの僕は、いつもふてくされていたのだった。
そしてこっそり、ポケットのニッカウィスキーを飲んで、
ハイライトを吸っていた。
気分だけパンクスだったのである。

演芸なのに。

一緒に出た中に、学生服、サングラスの、
角刈りの応援団のような小さいおっさんが居た。
名前を大川豊と言った。
そう、後の大川興行の総裁である。
Hくんは彼と親しげにオハナシしていた。

それが後に、あんなことになるとは・・・・・。

お笑いのこと 2


モンティ・パイソン 日本語吹替 - YouTube



「TVジョッキー」生放送当日。

練習熱心な僕らは、
リハーサルの2時間前に日テレのある市ヶ谷に行って、
テレビ局近くの公園で稽古した。
本当は、僕はめんどくさかったんだが、H君はやりたがったのだった。
まあ、実際に手品をやるのはH君なので当然だったのだが。

スタジオは、思っていたより狭く、
ちゃんとした楽屋もなかった。
ライブハウスの楽屋みたいなたまりがあって、
そこで新人のアイドルさんたちと出番を待つ。
衣装も前に書いた通り学校の制服で、
家から着ていってたので着替える必要もなかった。

そして本番。

僕らのパフォーマンスは、
信じられないぐらいの万雷の拍手と爆笑の連続だった!
リハーサルの時から、
スタッフの好意的な態度はなんとなく感じていて、受けるんじゃないかと言う直感はあった。
にしても、まったく知らない観客の前であんなにも、うけるとは!
司会の土居まさる相本久美子も爆笑してた。
ゲストの河合奈保子も「ウェデングベル」のシュガーも大笑い。

綿密なマーケットリサーチによって練り上げられた、
匠の笑いが受け入れられた!・・・と言うのは、まあ、全くの嘘っぱちであるが・・・・。

たぶん、最初は冷笑だったのである。

が、しかし、その冷笑が化学変化して爆笑に!
自分で書いていてもウソっぽく感じるが、
これはホントウなんである。
その証拠に、僕らは「ザ・チャレンジ」の時間を毎週勝ち抜き、
最終的にグランドチャンピオンになってしまったのだ。

賞品として、あのおなじみの白いギターは当然。
あと、ジーンズ、ウォークマンなんかを獲得!
それらはH君が換金して山分けにした。
ウォークマンだけは僕のものにした。
当時、羨望のブツであったウォークマンⅡ
たかがカセット再生機が3万!!
ふたりで聞けるんだよね。

TV出演が終わると、楽屋や出口に花束を持ったギャルが殺到!・・・

・・・なんてことは、まったくなかった。

テレビ放送の次の日は学校は大騒ぎでチヤホヤ!!・・・

・・・なんてことも皆無だった・・・。

人気番組だと思っていたのに、意外とみんな見てないのだった。
インターネットなんてない時代だから。
でも勝ち抜いていくうちに
「すごいね」
ぐらいは言われるようにはなったが、
しかし三多摩と言ってもメガロポリス東京。
素人番組で優勝したぐらいではスターにはなれない。
むしろバカにされてたのかも知れない。

そして、翌年の正月。
歴代のグランドチャンピオンが集合する特番がはじまることになった・・・。



ところで、今まで誰にも言ってなかったが、
おそらく僕の中には、シュールなお笑いのカンジの原型として、
昔12チャンネルで見た『モンティパイソン』があったんだと思う。
『モンティパイソン』は今でこそ神格化されているが、
当時はそんなこと言っても誰もわかってくれなかった。
たぶん、僕らは「新人類」だったんであろう。
言っててコッパズカシイが、ホントウである。

高度成長期も終わった、80年代。
すべての価値観が新しくなっていた。
バンドもお笑いも。

「モンティパイソン」でやった、木の写真が出てきて一言 
「カ・ラ・マ・ツ」
とだけ言うギャグ。
これが原点だ!!
アナーキー・イン・ザ・UK」と一緒である!!

お笑いのこと 1

Kill Bill - Trailer - YouTube

 

前にも書いたが、高校時代の僕は、
バンドだけではなくて、剣道部にも所属していた。
ちなみに2段!おまけに部長!
でも、公式戦無勝。
無敗、ではなく。
剣道は基本が型なので、強くなくても段がとれたのだ
(今はどうかしらないけど、少なくとも当時は)。
あと、奇声をあげたりするので声がでかくなる。
これは今でもバンドをやる上で役に立っているかも。
あと、基本左だけで竹刀を持って、
右手を軽く添えて制御するので右肩だけが異常に発達する。
これはバンドでは特に役に立ってはいないが、
「俺、昔剣道やってたんだ」とギャルに言って肩を触らせてキャーキャー言われたりとか、
別の意味でロックンロールライフの役に立っていた。
今はもう、左肩右肩とも同じになってしまったけど・・・。

ちなみに柔道部の部長B君も、
僕と同じく軽音部と掛け持ちで、パートはドラムだった。
ドラムというのがすごく柔道部っぽい。
クラスも一緒だった。

剣道場と柔道場に挟まれて、卓球部の部室があった。
卓球部の部長Hくんはユニークな顔の持ち主で、いつもニコニコしていた。
都立高校なのに、何故か埼玉から通っていた。
受験してから、引っ越したらしい。
彼とはクラスが違ったせいもあり、そんなに親しくはなかった。

ある日、彼が自分の教室でみんなに囲まれてるのが目に入った。
そんなに目立つ人でないので「めずらしいなあ」と思い、
よく見てみると、へんてこな手品をやっているのだった。
ユニークな顔と、いんちきな手品。
指が移動するとか、そういう小学生低学年レベル。
不思議なおもしろさがあった。

彼に興味を持ったのでハナシを聞いてみると、なんと、その手品でTVに出ることになったという!
TVである!!!
ビックリ。
軽音な僕は、おせっかいながら「音楽をつけるべき」とアドバイスした。
的確なアドバイス(?)に感動したらしい彼は、僕に作曲を依頼してきた。

作曲!
喜びいさんでシンセで曲を作りだしたのだが、
Hくんと話しているうちに仲良くなり、
思いがけず伴奏で一緒に出演してほしいと頼まれた。
「テレビなんか関係ネーヨ」
という、初期衝動ジャパニーズ(文系)パンクスの僕だったが・・・
実は、「テレビに出れる!テレビに出れる!」とわくわくだった。
まあ、パンクスと言っても高校生だし・・・。

そこで、気がついた。

「あ、オレ楽器まともに演奏できない・・・」

あわてて小学生だった弟のピアニカを借り、
軽音部でキーボードをやってたKくんにコードの押さえ方を教わった。
あの、音楽の時間の始まりに、お辞儀をする時に先生が弾くヤツ。
それと、ファンファーレ。
ちなみに、お辞儀とファンファーレは同じコード。
CとB。
ドとシ。

それから僕らは、道場の裏で血が滲むような稽古を続けた・・・・
と、いうのは嘘だが、そこそこ一生懸命にやった。
演奏自体は3秒で覚えられるような簡単なものだったが、
手品とのタイミング合わせが結構難しかったのだ。


「意外とお笑いはタイミングが大事。間は魔」
なんてことを僕が言うと、お笑いマニアのH君は感動してくれた。
手品のはずだったのに、何時の間にやらお笑いに・・・・。

コンビの衣装は高校の制服にした。
上が茶色の背広、下が灰色のズボン!ネクタイはエンジ!
お洒落な僕は、
クラフトワーク日本公演で露天商から買った細いネクタイをしていた。
斜めに「Kraftwerk」と書いてあるデザイン。
当然、クラフトワークのメンバーはそんなネクタイの存在は知らない。

ロックな僕は、フリクションのレック先生に憧れてサングラスもかけることにした。
サングラス入手のためにわざわざ新宿まで遠征して、
宝島で読んだしょんべん横丁デヴュー!
小ガード入り口近くのサングラス屋で、黒ブチの四角いタイプを購入した。
そのお店は今でもガーゼのシンさん御用達らしい。
海外の雑誌で
「そのキャツアイはどこで買ってる?」
と聞かれ
「しょんべん横丁で買ってる」
と答えているのを読んだことがある。
全世界パンクスの聖地、しょんべん横丁!
そうそう、トイドールズも買ってたらしい。
当時はあの場所に何軒もあったサングラス屋だが、今は1軒だけ残ってる。

用意は万全!
とある日曜日の早朝、
ふたりして日本テレビのある市ヶ谷の駅前に初めて降り立った。
三多摩の高校生は、
山の手線の内側に行ったことはほとんど無かったのである。
駅に降りただけで緊張していた・・・。
それから起ることを知らずに、
僕らは『TVジョッキー』の生放送がある日本テレビに迷いながら向かった。

頭の中では、『キルビル』のテーマ
(ホントは阪本順治監督の映画『新・仁義なき戦い』のテーマ)が流れていた。
・・・本当はずっと後の音楽だけど・・・。

バンドのこと 4

The Pop Group - Thief of fire - YouTube

高校三年生、と言う大事な時期。
その大事な時期に、
バンドだのビデオアートだのにウツツを抜かしていた僕は、
当然のように大学受験に失敗し、浪人生となった。
でも、ナゼか練習スタジオには通っていたのだった。
それも、地元府中じゃなくて、
わざわざ国分寺の「GOKサウンド」や「音楽館」まで、
バイクで20分かけて。

GOKサウンドは、当時、国分寺街道沿いにあった。
アメリカンスタイルの50ccのバイクでそこに通っていた僕は、
途中で豪快にこけた事もある。
その時、後ろにはエレクトロハーモニクス社のテルミンを積んでたのだが、
さいわい壊れなかった。
後に知ったのだが、
あそこは日本のインディーズ(当時は「自主盤」などと呼ばれていた)の名盤の数々を録音したスタジオらしい。
だが、当時の僕はそんなことはつゆ知らず、
ザ・スターリンのコピーに明け暮れていた。
その後、吉祥寺に移転したらしいが、
今でもGOKサウンドは健在である。

北口にあった音楽館(ちなみにロゴの「楽」は横になってる)は、
いつもドンヨリとしていていい感じのスタジオだった。
この当時のスタジオに多かった「アメリカンなウェストコーストなカンジ」というか
ウッドストックなカンジ」は微塵もなく、日本のアングラな世界。

その隣が「モルガーナ」ってライブハウスだった。
今もある。
当時は今の半分の大きさだった。

そうこうするうち、音楽スタジオやモルガーナ、
国分寺の「古着屋」って名前の古着屋でいつも見かけていた、
端正な顔立ちの男の子と仲良くなった。
僕が(そして吉本隆明も)観た、
83年のザ・スターリン立川38アベニュー公演の時に彼も現場にいたときいて、
意気投合した。

その名もダミアン!

もちろんアダ名だけど。
年は僕の一個下で、私立の高校に通っていて、
いつもベレー帽をかぶっていた。
そう、ちょうど丸尾末広の漫画に出てきそうな感じの美少年!

彼とも一緒にバンドをやった。
当然、ザ・スターリンのコピー!
ダミアンがベースで、僕はやっぱりボーカルだった。
彼とは、スターリンのコピー以外に、オリジナルもやった。
やっぱり僕はボーカル。
何故か、蝶ネクタイ、タキシードで歌っていた。

さらにその上、僕はソロ活動もしていた(浪人なのに・・・)。
その名も「善A(ゼンエー)」。
恥ずかしさ爆発!

アナログシンセCS30で出した音に風鈴の音を多重録音
(録音した音をラジカセなどで流しながらそれに合わせて演奏したものを録音・・・と言う原始的なスタイル!)
したテープをバックに、おもいっきり深くディレイをかけたギターを演奏!
そんな前衛バリバリなライブを数回、モルガーナで演った。

「善A」は、なんと自主製作でテープ
(テープを流しながら同時演奏したものをさらにテープに録音、と言う無限地獄みたいな作品)
まで作って発売した!
発売から数年後に三軒茶屋の「フジヤマ」にいったら、まだ売ってた。
まだ、あるかも・・・・

やり手のダミアンくんはモルガーナで企画もしていて、いろんなバンドを呼んでいた。
Che-SHIZUスーサイドザ・ラビッツなどなど・・・。
僕らのバンドがどことタイバンしたかは覚えてないが、年がら年中モルガーナにいりびたっていたのは確かだ。
でも僕、予備校にも通ってたんだよなあ。
恐るべき行動力?

国分寺に行くもうひとつの目的は、
駅前にあった「ブンジー」という貸しレコード屋だった。
そこは海外インディーズ、国内の自主盤など、宝の山!
愛欲人民10時劇場」!
ザ・ポップグループ!
ラフトレード
見たことないレコード満載!
中央線文化の懐の深さを思い知った!
それと比べて京王線の地味なこと・・・・。

浪人時代の、所在ない感覚。
でも、それが大人になった今でも、ずーっと続いているような・・・。