読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

pegawa's blog

昔 ピープルという ビデオレンタル屋がありました 都築さまより<a href=http://roadsidediaries.blogspot.com/2009/11/blog-post_11.html>ビデオ・スターの死</a>

お笑いのこと 4 おしまい

f:id:pegawa:20131020165147j:plain

 

 

それはまさに、青天の霹靂であった。

JPC(雑誌「ビックリハウス」が主催したコンテスト。前回参照のこと)が
終わった後、
怒涛のように仕事が舞い込んできたのだ!

僕らは芸能事務所に入っていたわけではないので、
仕事は大川興行総裁・大川豊さんや、
「トレーナーで遊ぼ」「タオルで遊ぼ」などの学生演芸で一世を風靡(?)した、
東海大学近藤演芸チームたちからの紹介であった。

最初の仕事は、あの居酒屋「村さ来」が経営する、
「ライブインムラサキ」という、新宿にあったライブハウス。
そこで週一回、「学生演芸」というくくりで営業した。
大川興行東海大学近藤演芸チームのほかには、
ジーコ内山さんや、後に聖飢魔Ⅱのボーカルとして有名になった
デーモン小暮閣下(当時は素顔で本名…じゃなくて世を忍ぶ仮の姿で、
スーパースランプと言うバンドのボーカルをしていた。
ちなみにその先代のボーカルはサンプラザ中野である)
ゴジラのモノマネをしてたりした。

ギャラは、最初はちょっとだけ出たが、
その次は飲み食いタダ、
その次は飲み物だけ、
その次は薄い大入り袋、
その次はなにもなし、
とだんだんショボくなっていき、
結局「ライブインムラサキ」での仕事自体がなくなった。

しかし、当時はなぜか学生演芸がもてはやされており、
一つなくなっても、次から次へと営業やテレビのお仕事が入ってくるのだった。

新宿アルタ前での新製品のイベントや、パルコでのイベント。
テレビ出演は数知れず。

報酬は、だいたい仕事した3ヶ月ぐらい後になって、
製作プロダクションや代理店から僕らの口座に振り込まれるのだが、
なにせ3ヶ月も前の話なので、
金額的にどれがよくてどれが悪かったのかは分からなかった。
途中で色々と中間搾取があったのかもしれないが、
なにせこちらも学生演芸のシロウトなので、
どういう仕組みでカネが発生して、どこに流れていくのか全然知らなかった。

色々と小さな仕事をやったけど、
もっとも印象深かったのが日本テレビ『11PM』である。
確か、ピアニカを一発吹くごとに5000円!
芸の最中、何回も吹くので、つまり合計数万円!
当時の僕らには破格のギャラだったと思う。
なんでここだけ金額も覚えているかと言うと、
日テレから直接現金でギャラを頂いたからである。
この時の写真が残っている。

冒頭の写真はこの時のものだ。

そして、テレビの仕事でビックリしたのは「タクシー券」!
当時、僕は中央線の国立に住んでいたのだが、
遠い近い関係なくタクシー券がもらえるのだった。
イベントなどの営業は交通費が自前なのでえらい違いだ。
都内から遠く三多摩の国立まで、自分のフトコロを気にせず
タクシーで高速道路を通って帰るたび、
「テレビってすごいなあ」と思った。

誰の紹介だか忘れたが、大阪吉本の劇場に遠征もした。
それも、大学の夏休みを利用して一ヶ月近く!
なんば花月うめだ花月
多いときは、なんば、うめだ、なんば、うめだ、と一日4回出演した。

劇場間の移動は基本、電車。
プロ意識の薄い僕は、移動の際、
電車の中にピアニカを忘れたりしてた。
いい加減だったのである。

僕らが出演したのは、「フレッシュコーナー」という新人紹介プログラムであった。
楽屋も屋上のプレハブ。
トミーズなんかと楽屋が一緒になったり、
移動の際には非常階段
(キングオブノイズの方じゃなくてお笑いの方。今のシルクねえさん)と一緒になったりした。

当時人気番組だった『さんまの駐在さん』収録の前座みたいな事もやった。
1000人以上入るうめだ花月は、夏休みと言う事もあって、いつもいっぱいであった。
フラッと島田紳助さんが訪れて、ほかの人の舞台に飛び入り、
パンツ見せて帰っていったりする事もあった。

ダウンタウンも人気だった。
彼等はうめだ、なんばよりも小さい小屋・心斎橋劇場でやっていて、
そこにも僕らも出たりした。
ダウンタウンの居る楽屋に挨拶に行った時、H君は大興奮してたが、
下宿にテレビを持ってなかった僕は彼らの事をよく知らなかった。
僕は、実はそんなに演芸に興味がなかったのである。

H君は、実はいんちきマジックよりも漫才がやりたかった。
いきなり台本書いてきて、吉本の屋上で稽古をさせられた事もあった。
イヤだった・・・。
何回かやったが、所詮シロウト。
グダグダだった。

マジック自体も小さな小屋ではうけたが、
うめだ、なんばでは、満杯の客席1000人が、水を打ったように

シーーーーーーーーーーーーーン

となる恐怖体験を何回もした・・・・。
空調の音が一番大きい。
「あああああああ、わかったわかった帰れ」
という、暖かい(?)声援を貰った。

そんな駄目な僕らにも、
オッカケが数人ついていたのだから舞台の世界は恐ろしい。
数分のステージが終わると出口にいるのだ。
「出待ち」と言うヤツである。
そして、僕らとうめだ←→なんば間を一緒に移動する。
なおかつ、その度に数千円の入場チケットを購入してるんである!
そんな少女達を正直、僕は恐ろしいと思った・・・・。
申し訳なくてジュース買ってあげたりした。
芸人失格である。

吉本の社員さんは好意的で、僕らが泊まってるホテルに訪れ、
出張で行ったロンドンで見た、
本場ロンドンパンクスのオハナシをしてくれたりした。
で、酔っ払って
「ホテルなんてぶち壊して、窓からテレビ投げればいい」
なんて物騒な助言をするのだった。

そんな器がない僕らは、ショボショボした毎日をホテルで送った。
男二人、ツインの部屋に一ヶ月のカンズメ生活はとても辛かった。
最後の方は、ほとんど口もきかなくなる。
倹約家のH君は、ホテル備えつけの冷蔵庫で水出し麦茶をつくっていたのだが、
それを僕が勝手に飲んで大ケンカになった。
部屋にいてもショウガナイので、夜になると、僕は大阪中ウロウロした。
酒屋で買ったビールやウイスキーを飲みながら、街をほっつき歩くのだ。
基本、お金は無かったので、飲み屋はいけなかった。
多少貰ったギャラも、生活費や、バンドのライブチケットノルマに消えた。
移動費、宿泊費は吉本興業から出てきたが、飲食は自前だった。
唯一覚えてるのは金龍ラーメンでニンニクニラたっぷり。
誰かのおごりなら、何回か飲み屋にもいったことも。
いくよくるよ師匠がやってるお好み焼き屋さん。

『師匠』と言えば、僕はずーっとH君をふざけて「師匠、師匠」と呼んでいた。
しかし、『師匠』だらけの吉本。
いつものように僕が、
「おい、師匠早くしろよ」
などと叫んでいたら、
ホントのマジックの師匠や西川のりお師匠ににらまれた事もあった。

そんな夏休みの大阪遠征営業は、2年続いた。

帝国ホテルでの営業をしたこともある。
結婚式だった。
板付きしたH君が話し始めるのを合図に
「おいおい!ちょっと待ってくれよ!」
と、僕が空中庭園から会場に乗り込む。
ボーイさんが、うやうやしく出入り口を開けて下さる!
バカバカしいがおもしろかった!
ネタ自体はしっかりやったような気がする。
と言っても、僕はピアニカ吹いただけだけど。
ただ、「新郎新婦」のどっちがどっちだかわからなくなった。
ベロベロだったのである。
そう、僕は楽屋でビールをしこたま飲んでいたのだった。
なんかカタツムリ(エスカルゴ?)も食べた気がする。
帝国ホテルの営業はいい仕事で、お土産もいっぱいもらったなあ~。
営業の後に生涯唯一の合同コンパにいって、全部くばってしまったけど。

何回かラジオにも呼んでもらった。
そのときは「ガキガキ発狂ズ」という名前であった。
吉田照美さんの番組で、生放送前に
「その名前は?」
と聞かれたので、H君が
「子供たちが狂ったように遊ぶさまを・・」
と言いかけたら、
「お願いだから本番中にそのことを言わないで」
と、懇願された。
で、マジックやったがラジオでは無理・・・・。
見えないから。

そんな、怒涛の季節は、数年で終わった。
マジックでシュール芸をやってたい僕と、
芸人としてトークや漫才をやりたいH君。
僕もお笑いは好きだったけど、舞台で話すのは苦手だった。
また、彼は僕がバンド活動をやってるのも気に食わなかったらしく、
「音楽やりたいならそっちに専念しろ」
と、言われたこともあった。
あまりに「芸人」をやる気のない僕に愛想を尽かし、
H君は知らない間にほかの相方をみつけて活動をはじめた。

そうは言っても、コンビをハッキリと解消したつもりではないらしく、
僕はその後も何回か、彼に仕事に呼ばれた。
簡単そうにみえるがピアニカを吹くタイミングが実は結構難しく、
僕以外では上手くいかなかったらしい。
これはちょっと自慢。
「コンビを解消した」と言うより、
「フェイドアウトしていった」感じだ。


H君はその後、「へらちょんぺ」と改名した。
スイカの絵柄の下に「すかい」と書かれたTシャツを着て、
フジテレビの『ボキャブラ天国』もよく出てた。
ボキャブラ天国』には何回か、僕もネタだしにいった。
僕が考えたネタ。
「下がれ下がれ!このモンローウォークが目に入らぬか」

へらちょんぺはその頃、よく営業に「ボキャブラ座布団」を持ってきていた。
チャンピオンの証だそうである。
番組見たことないからよく知らないけど。
「僕が仕事を取ってきてるんじゃなくて、この座布団が仕事を取ってきてるんだ」
と、言っていた。

小学館の学習雑誌「小学6年生」の読者投稿欄を
へらちょんぺが担当していたこともあった。
僕も小学館のデカイ本社に呼ばれて、
夜中まで「打ち合わせ」と称したバカバナシをし、
出前で、おいしいものを食べ、
帰りはタクシー券!で帰った。
なんか夢のようだった・・・。

仙台の営業にも行った。
暇だったからついて行っただけ。
僕は呼ばれてなかったのである。
これは、流石に交通費自前。
山の中の大学だったと思う。
へらちょんぺが学生との飲み会を主催しようとしたが、
人がゼンゼン集まらなかった。
それから、仙台の繁華街に繰り出した!
宿泊は営業先の学生の家。
なんか楽しかったなあ~。
記憶がおぼろげだけど。


へらちょんぺことH君は、
最近は「服を3秒で脱ぐ」というネタで、宴会営業などで小活躍中である。

そして今でも、僕は彼に3年に一度ぐらい呼ばれてマジック(というかマジックの伴奏)をやる。
必ず、へらちょんぺ師匠は
「それでは、懐かしのマジックをやりたいと思います」
で始める。
懐かしいのは僕らだけなんだが・・・。
そして、異常なぐらい受けない・・・・・。
トホホである。

でも、あの栄光の影があるからいいさ。
ドッカンドッカン受けたのが今でも、
僕らの脳裏に走馬灯のようによみがえる。
あと、お小遣いももらえるし。

いまでも、いつでも出動できるように、
ピアニカは押入れで眠っている。