pegawa's blog

昔 ピープルという ビデオレンタル屋がありました 都築さまより<a href=http://roadsidediaries.blogspot.com/2009/11/blog-post_11.html>ビデオ・スターの死</a>

お笑いのこと 3


戸川純 レーダーマン - YouTube

ある正月、再び「テレビジョッキー」に呼ばれた。
グランドチャンピオンの栄冠にかがやいた余韻もさめて、
お笑い・・・じゃなくて手品の記憶も薄れていたころだった。

グランドチャンピオンになったときは、
「これで有名人だ!タレントだ!CM契約だ!億千万!」
と、ココロの中でワクワクしていたのだが、所詮、素人。
事務所に入ってるわけでもないので、そんなこともまったくなく、
あの時に競演したシュガーや南野陽子が、
たまにテレビで僕らのインチキ手品のネタを
マネしていたと伝え聞くぐらい・・・・・。

そんな僕らが呼ばれたのは、
「テレビジョッキー」の正月特別企画
「グランドチャンピオン大会」だった。
グランドチャンピオンが集まる大会だけあって、
かなりおもしろかったような覚えがある。
それもそのはず、
素人時代の竹中直人とんねるず柳沢慎吾などが出てたのだから。
まあ、素人だから、ダレがだれやらってカンジではあったが。

そんな後の大スターたちの中で、
僕の演奏するピアニカの高らかなファンファーレと共に、
いつものごとく
「テレッテ、テッテー、テテテェテテレッテテテテ~」
とインチキ手品を披露するHくん。
オチは、ナイフやフォークを取り出して頭上に投げ、
同時に頭を抱えて逃げる・・・・
という、シュールきわまりないネタ!
爆笑の嵐だった!

記憶では、竹中直人とんねるずを凌いで
グランドチャンピオン大会優勝したような気がするが、
違ったかもしれない。
まあ、それぐらいウケたということだ。

でも、それはそれで終わり。
なにがしかの賞品貰ってオシマイ。

その後の僕は、恋に部活にバンドにバイクに忙しかった・・・。
って、こともないけど。
のんべんだらりと高校生活を過ごしているうちに、
インチキマジックショーの事は記憶から薄れていった。

Hくんとは別々の大学に進学して、連絡は途絶えた。
まあ僕は、下宿に電話もひいてなかったし。

そんなある日、実家からはがきで
『Hくんが「連絡を乞う」と言っている』と伝えてきた。
早速、公衆電話から、連絡してみると。
Hくんは、パロディがどうの、ビックリがどうのと、
なんだかよくわからないオハナシをまくしたてるのだった。

なんだかよくわからなかったが、
久々実家に弟のピアニカと高校時代の制服を取りに戻り、
その後、渋谷でHくんと待ち合わせた。
当時、僕は渋谷といえばライブハウスの「屋根裏」や「エッグマン
に行くときぐらいしか縁がなかったのだが、
Hくんに連れて行かれたのは「パルコ」だった。
審査員がいた。
なぜか戸川純もいた。
赤瀬川原平糸井重里高平哲郎山藤章二横澤彪もいたらしい。
まったく知らなかったのである。
第8回JPC。
ジャパンパロディコンテスト。
パルコが発行していた雑誌「ビックリハウス」の
主催したコンテストである。
それのパフォーマンス部門。
そう、僕らはそのコンテストに、
グループ「マジックくんとピアニカくん」として出場したのだった。

「パフォーマンス」と言いつつも、僕らはいつもの演芸をやった。
演芸ということで、審査員からはけっこうキビシイことを言われたが、
客席はけっこうウケていた。
戸川純にも「あの演芸の人はよかったです」と、
あの声でうつむき加減で言われてうれしかった。
奨励賞をもらった。
特選は飛び入りで出た小峯隆夫。

(ビックリハウスのJPCの内容、写真)
鮫肌文殊なども出ていたらしい。
賞品はなんだったんだろ?
まったく覚えてない。
「宝島」派だった僕は「ビックリハウス」はまったく読んでなかったので、
「なんか、ノリが違うなあ」とふてくされていた。
基本あのころの僕は、いつもふてくされていたのだった。
そしてこっそり、ポケットのニッカウィスキーを飲んで、
ハイライトを吸っていた。
気分だけパンクスだったのである。

演芸なのに。

一緒に出た中に、学生服、サングラスの、
角刈りの応援団のような小さいおっさんが居た。
名前を大川豊と言った。
そう、後の大川興行の総裁である。
Hくんは彼と親しげにオハナシしていた。

それが後に、あんなことになるとは・・・・・。