

MUGRAPHIX presents
RED/GREEN RG-06『熱的死 (HEAT DEATH)』@POOL桜台
2017年12月10日(日)open16:30 / start17:00
fee:day_2000JPY+1D/adv_1800JPY+1D
出演:GRANDMOTHERFUCKER(グランドマザーファッカー), BIC-E(ビックE), MAGMATRON(マグマトロン), ANTONIO GIANT(アントニオジャイアント), MANIAORGAN(マニアオルガン)
【pool桜台】https://reserva.be/pool チケット予約可能






僕が経営者になった最初の頃は好景気で、ソフトメーカーが宣材で作るポスターもデカくて、気前よく次々と送られてきていた!
ラッパーズ 7
THE原爆オナニーズ「GO GO 枯葉作戦」 - YouTube
へヴィーメタル、という言葉がある。
僕が80年代末から90年代初頭にかけてやっていたバンド、
ラッパーズが出したソノシートのタイトル「メタァル」は、
それから名付けた。
キーキーうるさい演奏とガーガー騒がしいヴォーカルの混沌の中から、
キラキラしたハードコアな美しいものを見つけだす作業である。
意味はないが、尊いものだ。ラッパーズを結成したころ、
ある飲み会で、元エクスキュートで当時ハイライズのドラムだった氏家さんとご一緒した事があった。
面識は無かったのだが、厚かましくも
「僕はラッパズボンを履いて激しいロックをやってるんですが、
何か参考になる音楽などあったらぜひ教えて下さい」
とアドバイスをお願いした。
その時、氏家さんも当時は履いている人も少なかったラッパズボンを着用していたので、
訊かずにはおれなかったのである。
見ず知らずの若造の不躾な質問にもかかわらず、彼は快く
「アイアン・バタフライとブルー・チアー、それにMC5を聴くといいよ」
と教えてくれた。
早速レコード屋で探して聴きまくり、非常に感銘を受けたのだった。
これが、僕が最初に意識したヘヴィーメタルだ。当時、他にガツーンとやられたのは原爆オナニーズと非常階段の合体バンド、
その名も原爆階段!
彼らがすごくうるさいアレンジで演奏していた
マウンテン、ホークウィンド、ブラック・サバスなどのヘヴィーメタルバンドの数々・・・!
東京ロッカーズを描いたドキュメンタリーフィルム
「ロッカーズ」の中で、フリクションが演奏するレッド・ツェッペリンのカバー
「コミュニケーション・ブレイクダウン」にもココロ打たれた。
ファーストアルバムに入ってる名曲だ。
燃える飛行船!ザ・フーも!
「ババ・オライリィ」のリフのかっこよさ!
ヴォーカルのマイクぶんまわし!そしてビートルズ!
「ホワイトアルバム」収録の名曲「ヘルタースケルター」!
元祖ハードロック!いや、元祖ヘヴィーメタル!!「ミュージックマガジン」でヘヴィーメタル特集を読んで勉強もした。
「ヘヴィーメタル」の語源はステッペンウルフ
「ボーン・トゥ・ビー・ワイルド」歌詞中の「ヘヴィーメタルサンダー」から来てるという珍説など、
ミュージックマガジンらしい斜め上の特集ではあったが、
「真のヘヴィーメタルは原爆オナニーズだ」
としめくくってあった!
ダレがなんと言おうと納得した。
僕が法政大学学生ホール、通称ガッカンの高いステージから何度もダイブした、
あのエディの骨太ビートの原爆!!!!
何回かは受け止めてもらえず、頭を打ったのもハードコア!ラッパーズはそれらを直接カヴァーしたり、エッセンスを取り込んだりしたのだった。
そう言えば、こんな事もあった。
あの頃、僕はウォークマンのパチもんを持ち歩いていて
(当時の彼女の持ち物だったが、ずーっと借りていたのだった)
毎日、当時出たばかりの日本のハードコアパンクバンドの音源を聴いていた。
キチガイみたいなヴォーカルと軽妙でハードなギターサウンドの数々!
リップクリーム、ギズム、カムズ、ガスタンクなどのバンド当時のヘヴィーローテーションで、
海に行くときも普通に聴いていた。
新島の浜辺には、ガスタンクとギズムのメタリックなリフがよく似合った。ある日、ベイサイドにあったライブハウス、芝浦インクスティックでジャズのイベントがあり、
そこで臨時雇いの機材搬入のバイトをした事があった。
ちょっと機材の搬入と終わった後のバラシをやるだけで、何千円も日当が出る遊び半分のお仕事。
バブルの頃は、そんなぬるいバイトが沢山あったのだ。
かなり暇なので、タバコ吸ったりしながらブラブラしていたら、ジョン・ゾーンがいた。
出演者じゃ無かったと思うので、ライブを観に来ていたのか?
当時彼は確か高円寺に住んでいて、
ガッカンでやっていた学生企画のライブに何度か出演していたと思う。
僕の中では、難しいジャズをやる人のイメージがあった。彼はその時、どういうつもりなのか、コンサートそっちのけで、そばにいるスタッフやミュージシャン、誰彼かまわず自分のウォークマンで音楽を聴かせまくっていた。
みんなイヤな顔をしたり、苦笑いをしたりしている。
なんだろう。
面識が無い、学生バイトの僕にも薦めてきたので、イヤホンを耳に突っ込んだ。
聴こえてきたのは、ジャズではない、激しい音楽。
意外だった。
「これなに?」
ジョン・ゾーンにたずねた。
「スラッシュメタル!」
「こんな音楽が好きだったら、日本にはリップクリームが居るよ!」
今度は、僕のウォークマン(パチもんだけど・・・)を聴かせる番だ。
リップクリームを聴いた彼は、とても喜んだ。
あの頃、ジャズマンはロック、特にヘヴィーメタルやパンクなどてんで馬鹿にしていて、ハナもひっかけなかったのに。
意外だった!
けどうれしかった。
同時代を生きてる実感があった。その後しばらくして、ガッカンにジョン・ゾーンのライブを観に行ったら、
前座にS.O.B.が出てきて大いに驚いた。
その驚きもつかの間、次にはリップクリームのPILLさんも登場!
ビックリした・・・。
あの当時、あれだけガッカンに出ていたジョン・ゾーンだ。
ハードコアパンクに人脈ができてもおかしくはない。
でも、ひょっとして、あの時に僕が芝浦インクのバックステージでリップクリームを聴かせたのが・・・・・なんて事も、思ってしまうのだ。ちなみに、今でもやるジョン・ゾーン主催の音楽ゲーム、コブラ。
80年代の後半にこれが開催されると、絶対に坊主頭の革ジャンパンクスが紛れ込んでいた。
大阪のオイパンクバンド、コブラと勘違いしたのである。
もう会場に椅子がある時点で間違えたと気がついただろうけど、それでも彼らは彼等は神妙に聴いていた。
でも、次のコブラにもそのパンクスは来ていたのだった。
僕の音楽に対する掟は、
「それは、ヘヴィーメタルか?
ロックンロールか?
ハードコアか??」
である。
それはジャンルではない。
キラキラとした、美しいものなのである。僕がガッカンで何度も観た。
きらめくミラーボールの中で演奏された、裸のラリーズの、何台も並んだマーシャルの強烈フィードバックギターのように・・・・・そして、それは
「死ぬことができないもの」
なのである。
いつまでもいつまでも、耳の奥でずっと鳴り止まないものなのだ。そういう地獄のすばらしいものを作っていきたいのである。
硬いとか重いとか速いとかそんなのは関係ないんだ!
ヘヴィーメタルは!!ところで、メタル専門誌「BURN!」に出てくるバンドは、なぜあんなにベードラがペタペタ軽いんだろう?
それだけが謎だ!
ラッパーズ 6 ガッカンライブ
ラッパーズ゙ in 法政 1989/09/09 - YouTube
80年代中盤に始まった、
サブカル誌『宝島』主体の大人が作ったインディーズブームは、
『イカ天』を起爆剤とし、
80年代後半にはホコ天やライブハウスを中心にした一大バンドブームに発展した。
とはいえ、地道にライブやらメディアで顔を売って大手メジャーからデビュー、
という、昔ながらの芸能界的図式は変わらなかったけど。
世はバブル。
人気のあるアマチュアバンドがライブハウスで行う
ワンマンや自主企画で数十万のギャラが出るような異常事態は、
世知辛い今と違った。
実際、そんなライブや企画を月に数回やって生活してる者さえいたほどだ。
我がバンド、ラッパーズは、
残念ながら人気にも大金にもメジャーデビューにも縁がなかったが、
それでもその時代には1000人以上の観客の前で演奏した事があった。
忘れもしない、1989年9月9日。
当時の人気バンドであり、「バカロック」ムーブメントの旗手でもあった、
グレートリッチーズの前座として!
グレートリッチーズ(以下グレリチ)とは、元々個人的に仲が良かった。
車の運転もギターのチューニングもできない僕はローディーとも言えず、
楽屋のマスコット、ステージからのダイブ役として
よく彼等のライブでウロウロしていた。
あるときキーボードとしてメンバーに入らないかと誘われた。
ヤマハシンセ教室しか出てない僕は断ったが、
ヤマハキーボード教室に通えばいい、
お金はグレリチが出すからとまで言われた。
面倒なので後輩を紹介した。
スギウラくん。
今でも「杉浦フィルハーモニーオーケストラ」や
さまざまなアーティストのレコーディングやライブなどで、
イロイロご活躍のご様子。
そんな彼らが法政大学学生会館、通称ガッカンでワンマン企画をやる事になり、
僕が参加していた演芸コンビ「マジックくんとピアニカくん」に出演依頼が来たので、
悪賢い僕は、バーターでラッパーズもつけたという次第。
なんてイヤなヤツだ!
ちょっと説明しておくと、ガッカンこと法政大学学生会館とは、
学生だけの力で自主運営されていた、法政大学市ヶ谷キャンパスのホールのことだ。
企画、製作、音響、照明が学生の手によって行われていた。
ロックコンサート以外にも、演劇、映画上映など色々な催し物があった。
学生が自主管理していたのである。
施設の鍵の管理から、企画の選択まですべて!
しかも採算度外視で!
伝説のパンクイベント東京バトルDAYSや、
ジョン・ゾーンやフレッド・フリスの公演などが有名だけど、
世間的にはまったく無名なミュージシャンが、
広いホールの中でたった数人のお客の前演奏することもあった。
僕は法政多摩一期生で市ヶ谷キャンパスではなかったが、
ガッカンにはお手伝いで出入りしていたのだった。
多摩キャンパスの同級生を連れて行ったとき
「ああ、ここは30年ぐらいではできない場所だなあ」
って言ってたのが印象に残っている。
歴史がない多摩キャンパスの僕らには羨ましかったのだ。
ガッカンについては、あの当時行った事がある人しかわからない、独特の雰囲気があった。
アレが真の自由だった。
もうなくなってしまったけれど・・・。
話戻ってガッカンライブ。
ザ・スターリン、東京バトルDAYSもかくやという
1000人以上の観客でビッチリ埋まったガッカンのホールに、
出囃子のP-MODEL「アナザーゲーム」が鳴り響く!
その中を、クラフトワークに敬意を表して頭から工事用のカラーコーンをかぶり、
ホールの上、照明を当てるとこから僕は登場。
マイクはたしか当時出たばかりだったワイヤレスタイプ!
レンタル料すら高価だったワイヤレスマイクはすぐにスタッフに取り上げられたが、
僕は自前のマイクも持ってきていた。
当時、ザ・フーとリップクリームに憧れてマイクをグルグル回すことを練習していた僕は、
あらかじめいきつけのスタジオで壊れたマイクをもらっていたのだった。
そのマイクでグルグル。
壊れてるし繋がってないので音は拾わないのだが、
PAをビックリさせるために回したのだった・・・。
PAさん、たぶん、怒ってたろうな。
僕は、それがうけると思っていたのである。
バカである。
勝手に盛り上がった僕は、客の中に突入!
ビッチリすぎる客の下に入る隙間はない!
その上を僕は泳いだ!
グレリチ目当ての客は、僕ら前座には興味すらない。
「帰れ」「ふざけんな」という罵倒が、耳に突き刺さる。
なかなかの快感であった。
演奏後、ジミヘンなMムラくんはギターを叩き壊した。
さすがに火はつけなかった。
それから、客と握手していた。
なにはともあれ、
僕の中で最高の人間の前で歌った体験であった。
ラッパーズのあと、ちゃんと演芸も汗だらけでピアニカ吹いた。
着替えたけど。
その(グレリチの客が)熱狂のガッカン翌日は、原宿ホコ天でもライブだった。
バンドブームのもう一つの花がホコ天だった。
一時期は100バンド以上がひしめいていたと思う。
演奏場所の確保だけで、朝3時から!
場所取りを仕切ってる謎の団体(ヤクザ?)がいて、
それでほとんど良い場所は埋まってるという噂もあった。
それだけ出演バンドが多かったのだ。
客も多かった。
大金も動いていたんだろう。
ブームの終わり頃は、トレーナーを腰や肩に巻いた業界関係者も暗躍していたらしい。
前述した通り、
我がラッパーズは人気にも大金にもメジャーデビューにもトレーナー野郎にもヤクザにも縁がなかったが、
その日は友達のバンド「へたくそ」とのびのび演奏をした。
ただ演奏するのはなんなので、わざわざスモークマシンまで用意して。
本当はザ・スターリンやハードコアパンクの人たちがやっていた、消火器ブチマケをやってみたかったのだ。
ただ、あれはホントにやるとタイヘンなことになる。
いったい何度、消火器をガッカンホールでブチマケラレテ泣きながら片付けたことか・・・。
そこでスモークマシンである。
あれは冷たいんだな。
ポカポカ陽気の中、最前列で眠ってるお客さんめがけてピュシュー!
かけられた客はさすがにビックリしてたが、数万払ってレンタルした割には、あまり演出効果はなかった。
なにはともあれ、まったく意味がなくお金も歴史にも残らない。
まさにロックンロールな牧歌である。