pegawa's blog

昔 ピープルという ビデオレンタル屋がありました 都築さまより<a href=http://roadsidediaries.blogspot.com/2009/11/blog-post_11.html>ビデオ・スターの死</a>

レンタルビデオ物語 その11

f:id:pegawa:20130822192737j:plain

 

高校三年生になって、やっと進路を決めた。

シンセサイザーに憧れた、ただそれだけで、

音響工学

当然、理系。

そのために難しい数学、難しい物理の授業をヤマのように選択。

が、最初の一時間で挫折、

その後、授業はでてるだけな状態。

夏休み入る頃は、半分以上はサボっていた。

卒業単位には足りるように計算して、出なくても単位をくれそうな先生を見極めて、談合。

あんなに、自分の壁を実感して、「逃げろ!」って直感で判断したことはなかった!

 

で、ザ・スターリンのライブをやった大学というだけで、

法政大学に憧れてた。

まあ、法政にも工学部はあったが、ライブはやってない小金井校舎だったから論外。

明治学院でもライブを主催したが、なんかつまんなそう。

神奈川大学は遠いし。

筑波大学は自殺だし。

 

イキナリ文系に変更。

当然、この時点で浪人決定だった。

今なら、就職orニートって選択もあるんだろうが、

進学校だった僕の高校では、

9割近くが大学に行ってたのである!

男子はほぼ100パーセント!

女子だって、ほとんど数人を除いて進学か浪人。

イキナリお母さんになった同級生

(ちなみに、僕はその娘のことが好きだった…。

嗚呼、その時生まれた子供はもう30 か!)もいたけど!

そんな特別な事情でもないかぎり、

知ってる限り、ほとんどの同級生は進学か浪人。

まあ、浪人し続けてあきらめた人もいるだろうが。

 

高校三年生、夏。

一番、大事な時期。

そんな時期に僕は、秋の学園祭に向けて、ビデオ製作の自主団体を学内で立ち上げ、

撮影しまくってた。

吉祥寺、三鷹、是政。

結局、風景をバックに延々パンクニューウェイヴの音楽が流れるものを製作した。

 

 

学校にソニーのベータマックス

(のちに衰退した方式のビデオテープ。当時はVHSとしのぎを削っていた)

のポータブルデッキは、あったのだが、

VHSのポータブルはなかったので、

ビデオインフォメーションセンターでデッキを借りたりしてた。

 

ビデオインフォメーションセンターとは、吉祥寺にある「文化的」な電気屋。

当時まだ、海のものとも山のものともつかなかったビデオ関係の機材をいっぱい取り扱っていた。

と言うか、今もまだある。

湯村輝彦制作による「ビデオ撮影してるビキニパンツの男」が店の看板。

現在は、ナゼカ飲み屋なども経営しているようだ。

 

そのビデオインフォメーションセンターが主催したビデオ上映会で、

SCANNING POOLという芸術家集団を知った。

当時、吉祥寺パルコでPASSやP-MODELの映像を流していて、

(P-MODELは丁度、暗いアルバム『ポプリ』 や

異常なアルバム『パースペクティヴ』

を出していた頃)

それを撮影してたのがSCANNING POOLだった。

ちなみに、先に述べた僕の高校の自主団体は『パースペクティヴ』に憧れて、

階段の踊り場でビデオ流したり、

バンドで演奏したりした。

バンドは高校2年ぐらいから、機械とボーカル。

YMOやP-MODELをコピーしてた。あとセックスピストルズ、ザ・スターリン

でも、オリジナルのほうが楽だし!

なんっと言っても腐ってもオリジナルだし!

あ、シンセはヤマハのシンセ教室に通って操作は覚えたが、

弾けないことに気が付いてやめた・・・・・。

あんなものは機械がやればいいと思ってた。機械も使えなかったが。

歌と踊りとパフォーマンスは機械じゃ無理だし。

PILにも影響受けていた。

まあ、バンドのオハナシはまた別の機会に。

 

SCANNING POOLは、ビデオ上映とフリクションリザードによる演奏の合体という試みのライブを、

目黒鹿鳴館で企画したりしてた。

 

僕はまったくツテもなにもないのにSCANNING POOLに電話して、

「ビデオアートの修行をしたい」

などとトンチンカンなことを訴えかけ、

めでたく手伝いをすることになった。

向こうとしてもさっぱりワケがわからなかっただろうが、

その数倍こっちもサッパリワケがわかってなかったのである。

恐るべき、十代の熱き血潮の闇雲パワー。

 

 

卒業式の日(キチンと出席して、卒業証書を貰う時に舞台でダンスして、母親を赤面させた)、

学校の裏に隠してあったヤマハRX50

(当時乗ってた、原付なのにイージライダーみたいなアメリカンなバイク、だけど転ぶとハンドルすぐ曲がる)

で、原宿までのりつけて行った。

 

ラフォーレ原宿(原宿にある、オシャレビル。何故オシャレかわからんが、とりあえずオシャレ)で、

SCANNING POOL主催のライブがあったのである。

フリクション(その時のライブ)やミュートビート、ゲルニカが出演予定だったが、

ゲルニカが直前になってキャンセルした。

 

このライブの前に、

ビデオ上映素材として川崎や東京湾などいろんなとこにロケの手伝いに行っていた。

一緒に行動した人のことをよく理解してなかったが、

たぶんビデオ作家の人たちだったのだろう。

ビデオ作家の感性?で、工場や波止場を撮影してた。

撮影時期は2月から3月、大学受験の真っ最中。

友は次々に大学合格したり、

浪人が決定したりしてた。

 

SCANNING POOLが間借りしていた原宿駅すぐの事務所に

身体の大きな派手で目つきの鋭いおばさんがいて、

皆に「先生」「先生」と呼ばれていた。

後年、草間彌生だと気がついたのだが、当時はダレだか知らなかった。

たぶん草間先生の事務所だったのであろう。

一身不乱に絵を選んでいた。

先生に「あなたはダアレ?」

と尋ねられた事もあったが、

さっぱり分からなかった僕は

「丁稚奉公です」などとデタラメな答えをしていた。

心の中では「お前こそナンダ?」などと失礼なことを考えていた。

だって、眼光の鋭さが尋常じゃないんだもの。

蛍光の異常な柄のワンピースを来たオバサンなんて、ほかで見たことなかったし。

 

その頃はアートのアの字もしらなかったが、

唯一、ナムジュンパイクだけは知っていた(宝島にも載るサブカル界のオモシロおじさんだったので)

たぶんその影響でビデオアートつくろうなんてトンチンカンな夢を持ったのだろう。

上野の大博覧会(「ナム・ジュン・パイク展 ヴィデオ・アートを中心に」 1984年/東京都美術館 )にも行った。

 

原宿のライブが終わると、

憑き物が落ちたようにビデオアート熱も治まり

(まあ、修行といっても何もできないので、受付で釣銭間違えるぐらいしかできなかったんだが)

最後のSCANNING POOLの打ち上げパーティでの意外とアッパーで豪華な雰囲気に気後れして、

その後フェードアウト。

 

それから後は、人生に2度ないぐらい

代ゼミで勉強しまくった。

文系6大学コース。

当時、代ゼミは無試験で入学出来た(駿台予備校などは、予備校でも入学試験があった)ので、

文系6大学なんて曖昧でオシャレ(?)な人生の踊り場的コースは、

原宿校てこともあって大人気。

場所はなんと、あの草間先生(と居候SCANNING POOL)の事務所のすぐ裏だった・・・・。

ラフォーレ原宿も。

近寄らなかった。避けていた。

 

その大人気コース、最初は大教室で補助席まで出て、立ってる人さえ居たけど、

4月の半ばには中教室になり、

5月には代々木の美術学科コースの建物の一室、会議室みたいなとこに。

ツンツンヘアー、アラレちゃんメガネ、マッ黒いワンピースなどの地方出身のお友達は

まったく授業に出てこなくなり、

かたや、僕は予備校なのに、コースにはない人気の先生の教室に潜り込んだりした。

たぶん、まだ代々木アニメーション学園はなかったんだろうなあ~。

あっても、目に入らない!勉強一筋!

朝から晩まで授業!授業! 

昼ごはんは、代ゼミのなかの立ち食いうどん、「梅もと」!

毎日てんぷらうどん!ジャージ姿のバイトのムスメさんにほのかな恋ゴコロ・・・

でも、午後も授業!

で、家帰って「机はdesk」から始める苦手な英語!

中学生の習うような「月曜monday」、「火曜tuesday」、から始めていた!

それと同時に「タイムから学ぶ長文読解」!

あとは政経!

マルクス、レーニン、小さな政府、ニューディール政策

国語は得意得意!

本は読んでいたから。

 

そんなこんなで、なんとかあこがれの(ザ・スターリンがライブやった)法政大学に合格。

思っていた以上に偏差値どおりの結果だった。

 

まあ、浪人中も全然遊んでいなかったわけではなく、1983年9月1日、

知り合いがすでに入学していた法政に

「BOMB LINE 9.1」 

(出演:アレルギー/コンチネンタルキッズ/GOD/エクスキュート

/人民オリンピックショー~町田町蔵のバンド~)

など観に行った。

生まれて初めて行ったハードコアのライブで、「ダイブ」って文化も見た。

ただし、当時そんな恐ろしいことしてるのは、

たぶん横浜横須賀から来てる米軍の人たちだった。

アメリカンハードコアが本国では流行っていたのだろうなあ~。

まだまだ戦後。

 

ちなみにこのライブは開場が大いに遅れた。

この日が人民のデヴューだった町田先生が

バスドラの音をお気に召さず、

何度も何度も音を直していたから、らしい。

そのため、3時間ぐらい押しになって、終わったのが12時近く!

終電も無くなって帰れなくなったので、ライブ会場の隣にあった、

知り合いのサークルの部屋に泊めてもらった。

なぜかサークル部室に泊まってるのは僕だけで、一人ぼっちで、学内に響き渡る

「勝手に学校泊まったバカは逮捕しちゃうゾ!」的なアナウンスに、

怖くて怖くて、汚い毛布掴んで涙に暮れながら、

「ああ、ここがザ・スターリンがライブしたとこなんだなあ~」と感慨にふけっていた。

東京都民なのに・・・

三多摩住民だったけど。

 

レンタルビデオ物語 その10


P-MODEL 平沢進 - YouTube

 

1980年。

あの頃、女の子はみんな、聖子ちゃんカット  だった。

 

 

この年は

なんといっても『地獄の黙示録』。

カンヌ出品などということは知らなかったが

全席指定制のテアトル東京(銀座に当時あった、巨大映画館。

シネラマや70mmの大画面に対応していた)まで観に行った!

ドアーズなんて知らなかったから、

「暗い曲かかるなあ~」と思っていたら

ワルキューレにバッサリやられた!

でも、後半はさっぱり・・・意味不明・・・

後年、完全版を観て、やっと意味が分かった。

劇場で観たのは、すべての映画の中でこの作品が一番多くて5回!

 

ああこの年、

ツィゴイネルワイゼン』もあった・・

渋谷のはずれ、神社の境内、

シネマ・プラセット

(銀色のドーム型をした移動式小型仮設劇場。『ツィゴイネルワイゼン』の制作でもあった。

このドームで単館上映するスタイルで異例の10万人を動員したんだ!)で鑑賞。

アングラ演劇などちーっと知らない子供の、初プチアングラ体験!

水密桃を舐める舌のいやらしいこと・・・

 

後年、このアングラ作品はなんとテレビ放映もされた!

それもゴールデンタイム!

大谷直子がヌードで親指を鳴らすとコマーシャルインするかっこよさ。

 

この頃よりちょっと前、

中学生になった位から、名画座に行きだした。

今はほとんど潰れてなくなってしまたけど、

1980年代は、町のあちこちにロードショウが終わった作品を

2本3本4本5本とまとめて安い値段で観せる、

二番館、三番館と呼ばれる劇場がいっぱいあった。

トイレの臭いがたちこめる、薄汚い映画館。

 

立川に『太陽を盗んだ男』と『青春の殺人者』の2本立てを観にいったら

『青春の殺人者』は レイティング(映画倫理管理委員会による自主規制)で中学生は入れず、

ロビーで待っていた。

モギリのおばさんが、

市原悦子のシーンで「ひどい映画」とつぶやいていた。

 

結局、太陽で感動して、そのままドサクサにまぎれて青春も観た。

 

 

1980年の春に三多摩の高校生になった僕は、

平日、学校さぼって三鷹オスカーに朝から行って、

松田優作4本立て!やモンテイパイソン4本立てなどなど観た。

でも、マニアと言えるほど映画漬けではなかった。

なぜなら、1980年は

テクノブームが起こった年だからである。

 

僕もバッチリ、テクノにかぶれた。

まるで60年代のエレキブームのように。

 

まずは、中野サンプラザで開催された

ヒカシュー対P-MODEL

生まれて初めて観たコンサートが乱闘さわぎ!

 

P-MODELのファーストは

近所のイトーヨーカードに売ってなくて注文になり、

初回限定のピンクのレコードは手に入れることはできなった。

ポスターはもらったけど。

 

で、それからすぐあと、渋谷NHKホールでYMOの公演も観た。

鮎川誠がゲストで登場して、レディオジャンクを弾きまくる!!

クラフトワークも同時期。

高校生の少ないお小遣いをやりくりして、

ライブハウス通いも始めた。

 

お酒飲める歳じゃないので(お金も無いし)

一杯の紙コップ、ジュースチビチビ飲みながら。

渋谷センター街の立ち食いそばがディナー。

 

渋谷屋根裏、新宿ロフト、目黒鹿鳴館などなど。

P-MODELを新宿ロフトに観にいくと、

長髪のヒッピーに

「これ、どこがいいの?」

って訊かれたのもこの頃の思い出。

まだまだ、ウッドストックの残り香が

音楽界にあった。

 

同じ頃、パンクの嵐も吹き荒れていたけど

怖くて行けなかった。

エモーショナルマーケットとか

(主にパンクを中心として新宿JAMで開催されたシリーズ企画で、

GAUZEやGISMなんかが出ていた。

よく雑誌宝島にチェーンを振り回すGISMの写真とともに記事になっていた)。

 

 

 

1983.2.10、初めてザ・スターリンを体験した 。

立川38アベニュー

当時、ザ・スターリンの過激なライブは

週刊誌、テレビのワイドショーなどにも

取り上げられるプチ社会問題となっており、

23区内ではライブ出来なくなっていた。

 

前座はウィラード。

客層から浮きまくってる

初老のおじさんがいて、

当時噂だった刑事?と思ったけど

(ヴォーカルの遠藤ミチロウはステージで全裸になって逮捕もされた。

で、警察にマークされてるというウワサだった)

足元みたらお洒落なコンバースで、

その後読んだ宝島で

吉本隆明だと判明。

バクチクとビールが飛び交っていた。

 

同年の後楽園ホールは、チケットがとれず行けなかった。

というか、怖くて熱心にとる努力をしてなかったのかもしれない。

 

バイトもした。

中学生の時はお正月用玉子焼き工場の流れ作業。

高校生はロイヤルホストの皿洗い。

共に時給450円程度。

コツコツためて、

当時歌舞伎町の 

ロフトプラスワンがあるビルの前に

なぜかあったシンセサイザー屋に

ヤマハCS30(単音のアナログシンセサーザー)を買いに行った。

中古なのでケースはコルグのオルガンのいれもの。

配達に来た青年のことを、

「いかにも音楽やってそう」って親が言っていた。

 

そいから、高校の先輩から

テルミンフランジャー、ディレイの

「胸いっぱいの愛を」セットを買った。

「胸いっぱいの愛を」といえば、当時センター街でビデオ上映会やっていて、

そこで『レッド・ツェッペリン/狂熱のライブ』も観た。

あまりに長いドラムソロにイライラ。

セックス・ピストルズの『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル』も同じとこで。

 

今思えば脇でビデオ売ってたから、

ブート屋さんの営業だったんだろうなあ~。

当時のセンター街は新宿西口みたいなとこだったんだ。

八百屋とか果物屋がある地味な商店街。

パルコの方はお洒落だったけど。

お洒落といえば

高橋ユキヒロのブチックで

ハーレムパンツを買ったら

「そんな服着れないでしょ」と

親に言われ、泣く泣く渋谷まで普通のズボンに変えてもらいに行った。

原宿なんて、とてもとても。

 

あと、ドクターリズム55(ローランドのリズムマシーン)や

ファーストマンのシーケンサー

画期的だったローランドのドラマチックスベースライン 

(なんとケーブル線一本で同期演奏できる!)

などを、バイトで稼いだ金で買った。

楽器の練習もしないで。

 

この頃は、機械制御の演奏のことばかり考えていて、

本屋で「シーケンス」って書いてある工場機械の本まで見てた。

あと、物理部の先輩にたのんで、

当時最新鋭だったNECの

ミニコンで(当時パソコンのことをマイコンやらミニコンと呼んでいた。なぜだろう?)

僕のシンセサイザーCS30を自動演奏できるプログラムを組んでもらおうとして挫折。

 

自分でもコンピュータープログラム言語の元祖ベーシックもかじってみて、

「P-MODEL」と書いたら

永遠に「P-MODEL」が表示されるプログラムを組んでみたりもした。

ただ、操作を終わりにする暗号「エンド」を組むのを忘れていたのでストップできない!

しょうがないので電源引っこ抜いた。

こんな感じで、演奏もできなければ、機械制御もままならなかった。

 

前日行ったP-MODELのヘボナイザー

(ローランドのテープエコー RE-201 

を改造して、テープが永遠に同じ音を繰り返すマシーン。元祖サンプラー

を使用した即興ライブをこっそり録音して、

学校のお昼の放送で流したり。

嗚呼、はずかしき高校男子。

 

そんなこんなで、ほとんどこのころの映画は観てない。

 

1981年は『なんとなくクリスタル』、

1982年は『殺人魚フライングキラー』、

機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』

が公開されたらしいけど、やはり観なかった。

ガンダムなんて、トンガリキッヅ(恥かしい)に用は無い。

この頃「アニメはコドモが見るもの」で、

中学生以上の、特に男子が見るのは

すごくダサイことだった。

ガンプラなんか知らないさ。

当時コドモやオタクに大流行してたらしいけど。

僕はトンガリキッズだったからね(当時はまったくそんな自覚はなかったが)。

 

1983年公開

丑三つの村

大場久美子

観てないけど。

まあ、成人映画だったし(今はR15)。

宇宙戦艦ヤマト 完結編

昔あんなに好きだったヤマトにも、まったく興味なくなっていた・・・。

ヤマトやガンダムによる第一次オタクブームにより、

「月刊OUT」などのアニメ雑誌も盛り上がっていたらしいが、

僕はまったく興味なかった。

家族ゲーム

は後にテレビで見て衝撃を受けた。

劇場で観なかった後悔しきり。

というか、バブル前夜の映画界は地味・・・・というか低迷してた気がする?

 

嗚呼、あのころもっと名画座通ってキチンと学習していたらなあ・・・・。

 

ピープルとエロ


『女優・林由美香』予告編 - YouTube

やはり、このお題は避けて通れない。

 

レンタルビデオ屋ピープルは、その素敵な映画のラインナップと

通受けするマニアックでカルトなトンガリキッズ受けする品揃えで好評で・・・。

 

嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼!!!!

 

でもね!!!

 

それ!

まったく儲からないの!!!

 

はっきり言って、

ビデオテープソフト一本、1万6千円で買って、一回500円で貸して、

それがマニアック作品だと、レンタルしてもらえるのは

せいぜい2~3回。

しかも3年に一度とかいう頻度。

そんなブツがナガーーーーーーーーイ、

ロングテーーールで置いてあると貴重品。

ものによっては、店に置いてあるのを

「エライ!」

「スゴイ!」

と褒められるだけ・・・・

 

褒められるけど、経営的には1万5千円の赤字!

それが1本2本じゃない!

多い月は30本以上!

デレクジャーマン!ホドロスキー!なんてのはメジャー。

まだまだ、知らない監督!知らない国の作品!

アフリカ!北朝鮮!インドネシア!カンボジア

日本の自主製作!!

1万5千円×30・・・・。

どう?

シビレル?

そこでエロ!!!

ダイヤモンド映像』!

 『ビップ』!

宇宙企画

KUKI』!

 

ピープルが強かったのは、

V&R』・・・・。

そこでもマニアック!

嗚呼・・・

 

でも回転力が段違い!

ものによっては、3ヶ月以上出っ放し!

特に、『歌麿企画』とか『ブラックパック』とか・・・。

 

「エロで稼いで、アートで大損!」

 

それがピープルの合言葉。

 

ビデオレンタル屋全部がそうだと思ったんだけど、

実は

「エロで稼いで、スナック、パチンコで大損!」

てな、雰囲気の業界だった。

同業者の集まりにたまに顔出して、

営業マンに、

「最近、劇場で何観た?」

って聞いても

「え?そんな映画のハナシ社内でしたら『仕事しろ!』って叱られます!

 それより、あのスロットの台やりました?」

って聞かれる始末。

 

ホントにマニアックだった、高円寺オービスさんなんか

最後まで(2013年5月末に閉店)エロは棚に並べてなかったものなあ・・・・・。

尊敬します!

 

それに比べるとホント、チャランポランなピープル。

 

今だから、告白すると・・・・。

実は、エロはほとんど見たことはない!

『V&R』はよく見たけど、アレ、エロほとんどないドキュメントだし・・・。

普通のカラミオンリーのヤツは皆無!

 

だって・・・恥ずかしいんだもの!!!

 

 

 

ピープルと雑誌

 f:id:pegawa:20130801191144j:plain

 

レンタルビデオピープルは様々な雑誌の取材を受けた。

『POPEYE』

『週刊現代』

『BUBUKA』

『東京ウォーカー』

『この映画がすごい』

散歩の達人

日経トレンディ

『DIME』

 

自分でも忘れていたけど・・・

掲載誌が手元に残ってるだけでもこれだけ。

あと、何の雑誌かわからない切抜きもある。

だいたいが2000年前後に受けた取材。

当時商店街のウェブページが始まり、

それに関する取材が多かったのだ。

嗚呼、懐かしい。

 

ちなみに僕はそのころパソコン持ってなかった、

否、もちたくなかった、

否、買えなかった・・・

ので、安いセガのドリームキャストというゲームマシーンで、

インターネットをやっていたのだった。

別売りのキーボードを付けて。

それでキーボードの打ちかたも覚えた。

襲って来るゾンビをキーボードで文字打ってやっつけるゲームで。

あと、ナゼカ、ドリキャスはマウスが無かったので、

ショートカットをものすごく覚えた。

 

一番古いのは1998年の『POPEYE』!!!!!!!!!

すげえ!表紙がキムタク!

まあ、今でも同じように表紙になつけど・・・

止まってなあ時代。

 

でも15年以上前!

特集はサーフィン!

こんな雑誌でピープルは

『女優霊』

『壁の中に誰かがいる』

『ファーゴ』

薦めている!

「決してサム~くない、熱帯夜によく効く涼しげディープホラー・ラインナップ!」

だって!

こういうお題を決める取材はよくやったなあ~

「日本のサイケ映画」って特集では

ゴジラヘドラ』『喜劇特急列車』なんか紹介したなあ~

『喜劇特急列車』は、脇役が新宿でヒッピーやってて

カラダに絵の具を塗りたくって、ハプニングアートをやるだけだけど・・・・

 

1999年に出た、別冊宝島の

 『この映画がすごい 1』

には、ページ多く載っている。

まだ、月刊ではなくムック本として出たこの雑誌。

大きさは、別冊宝島と同じ、でも雑誌という不思議なスタイル。

 

インタビュー形式4ページ。

ビデオ屋を始めるきっかけ(まあバイトからてな、たあいのなハナシ)や、

そのころ熱心に書いていたゴマダレ批評というビデオケースに、

僕が数行のコメントを書いていた事について。

 

フォレスト・ガンプ/一期一会』に

 {裸の大将}と書いたり、

 

『素顔のままに』に

 {人工乳}などと書きなぐったり・・・

 

で、やはり『ファーゴ』と『リング』を薦めてる33歳の僕。

 

最後には「伝説になんかなりたくないから、がんばってる」って言ってる。

嗚呼・・・

 

2003年の週刊現代では

ボウリング・フォー・コロンバイン

を紹介。

と、言っても

「アートっぽい映像や音楽も若者にウケてる理由でしょう」

なんて、イキナリ識者な意見。

ただのビデオ屋の店長なのに・・・

 

そういえば、今は亡き恵比寿ガーデンシネマでだけ、

先行公開されたこの作品。

今では考えられない大入り!

公開数日前で、あらゆるチケットショップから

前売りチケットが消えた!

で、公開されると、朝のオープンと同時に

夕方の回まで全席完売ってな状況だった。

そもそも、アメリカであんなに話題になっていたのに

日本では単館公開ってことが、おかしい。

雑誌でゆっくり情報が入る時代は過ぎ、

ネットで探せばすぐに情報が手に入る時代になっていたのだ。

 

まあ、すぐに拡大ロードショーしたけど。

 

そんな風に情報が雑誌からネットに移っていって

我が家のドリームキャストで情報収集できるようになっていたのである。

それを元に旧作品をプッシュしていた。

なのに、マイケル・ムーアの作品について東京中から問い合わせがあった。

そんな簡単なことも

やってる店がなかったのは不思議??

 

 

 

 

 

 

レンタルビデオ物語 その9

1979年f:id:pegawa:20130724150323j:plain

角川映画の『戦国自衛隊 』!!

今でこそ、テレビで映画の宣伝をよく見るが、

実はこの一連の流れを作ったのは、

角川映画だと思う。

原作との関係をことさらに強調したのも。

 

テレビに押されて元気がなくなっていた映画業界に、

新風を吹き込んだのが角川映画だった!

 

同じ角川映画人間の証明』も1977年に

角川のサブカル雑誌『バラエテイ』を買って観にいっていたが、

いまひとつ親子の愛情の機微というものが

子供にはピンと来なかった。

 

が、「優作かっこいい!」とは思った。

松田優作とは、松田翔太, 松田龍平のお父さん。

当時本当にかっこよくて人気があった。

今で言ったら、キムタクとオダギリジョーをシェイクして、

10倍ぐらいチューンナップしたカンジ。)

 

それから、

「海外ロケして、ハリウッドの実力派俳優ジョージ・ケネディを使う、

角川春樹社長はなんてエラいんだろう」と子供ゴコロに思った。

当時の作品は、どこかインチキ臭いガイジンを使うことが多かったのだ。

 

で、ジョー山中の歌うテーマソングは、僕が初めて買ったシングルになった。

 

戦国自衛隊』は、

戦車とSF!!

という当時の子供が大好きなものを2つもぶち込んだ豪華盤!

僕には歴史はさっぱりだったが、

かなり金のかかったジープや戦車に痺れた!

ヘリで哨19号型哨戒艇を吊るすシーンなんて!!

 

しかし、印象的だったのは、

お目当てだったはずの戦車などの兵器では無く、

自衛隊員にみえない長髪かまやつひろしと、

戦国娘を暴行する渡瀬恒彦、忙しい忙しいと走り回るだけの草刈正雄

草刈正雄がチョイ役で出演したのは、

彼が主演した、同じく角川映画『復活の日』のプロモーションだったらしいけど、

結局僕は観ずじまいだった。

 

映画のほうはザックリ端折って

わかりやすく作ってあったけど、

半村良の原作小説に忠実に描かれていたのが、

田辺節雄(望月三起也のアシスタントだった)の漫画。

それで、この作品の歴史背景がわかった。

メディアミックスというヤツだな。

知らなかったが、もうメディアミックスって言葉、

角川使ってたらしい。

スゲーーーーーー。

 

まあ、僕にとっては歴史上の人物より兵器!

 

あと、新宿プラザでの

『エイリアン』

怖い怖いおそろしい!

でも、映画って「オモシロイモノ」ってビンビン感じた。

 

この作品は大混雑で、劇場の通路に座りこんで鑑賞したことを覚えている。

通路の、ほの暗い灯りと、暗い画面の中で動き回るナニカ。

ピープルとバンドマン

f:id:pegawa:20130718173552j:plain

 

笹塚は下北沢や新宿に近いわりには

安く借りられるアパートが多かった。

20年ぐらい前には、演劇関係者やバンド関係者が多く住んでいた。

町には、劇場やライブハウスも無いのに。

オマケに映画館も無くなった。

 

そういえば、レコード屋も現在では一軒もない。

一時期は三軒ほどあったのだが。

その中の一軒は小さいの店なのに、輸入盤もあつかっており、

僕や友達は毎日のように行っていた。

名前は『ビザール』。

モダーンジャズなどに強く、ヨーロッパの珍しい作品を入荷していた。

まあ、僕らは主に、アメリカのロックや日本の自主制作を買っていた。

実はピープルで貸し出していた音楽のビデオはかなりここで買っていた。

 

そういうわけで、わざわざ下北沢や新宿にいかなくても

CD、レコードは歩いていける所で買えた。

 

まあ、その店もずいぶん前になくなってしまったのだけど・・・・。

 

ピープルに来るバンドマンは様々だった。

近所にリハーサルスタジオがあったので、

笹塚に住んでない人まで借りに来てくれた。

 

そんなふうに、イロンナ人が来て借りてくれるのは、ありがたかったのだが、

中にはバンドマンらしく(?)、借りたビデオをまったく返さない人もいた。

そのハナシを他のバンドマンに愚痴ったら、

なんと二人は偶然知り合いだった。

バンドマンの世界は狭い。

 

数日して、ものすごい汚い字で書いた謝罪の手紙と延滞したビデオが返却ボックスに。

けっこう、有名なバンドの人であった。

昔は伝説なバンドに在籍していたらしい。

 

まあ、当然というかなんというか

延滞金は入ってなかったけど!

手紙には「いつか払う」と書いてあったが・・・

もう店はなくなってしまったしなあ・・・

でも払ってほしいなあ~。

 

ピープルと宅配

f:id:pegawa:20130710152813j:plain

 

レンタルビデオ屋ピープルでも、実は宅配レンタルをしようという考えはあった。

それも店を閉めるかなり前。

実際にリスト作りを試していた。

 

しかし、やはり採算の面であわないので止めてしまった。

お客さんに聞いてみると、当時なかなか借りられなかった

新作、人気作の希望が多かったのである。

 

今では考えられないが、その頃は、洋画の新作は人気で

ちょっとしたビッグタイトルは順番待ちになっていた。

ピープルとしても、少ない予算をやりくりして

ビッグタイトルを2本3本と入荷していた。

しかし、なんといってもソフトは1本1万5千円前後。

おいそれと入荷は増やせない!

 

そのうち、ツタヤなど大手が爆発的にビッグタイトルの仕入れを増やしていった。

 

「ああビッグタイトルで勝負はできない・・・」

で、よりマニアックなほうへ、マニアックなほうへ仕入れをシフトしていった。

 

その後、インターネットの時代になって、

自分のネット日記に「お探しのものありましたらご相談ください。」

と、控え目に書いたりした。

 

ボチボチ、「この作品ありますか?」という質問メールが来たが、

その要望は、なかなかに難しいものばかりだった。

 

バブル前から最中にかけて出た膨大な作品群の中の一本を探してます、とか・・・・

特にホラー!それもC級の!

もう藁くずの中から、針を探すような難易度!

 

あと、1980年代前半のビデオレンタル黎明期のソフト。

発売当時3万円ぐらいしたもの!

 

たまに、ピープルの在庫と合致するものもあったが、ほとんどが無いものばかりで、

お客さんには、あそこだったらあるかも?

ここだったらあるかも・・・

なんてアドバイスするのが、精一杯・・・

 

当然そんなコンシェルジュは無料・・・

日本にもチップ制度があればいいのに・・

と、何度も思った。

人生相談みたい・・・

 

探してるビデオを100本以上列記したメールが来たことも!

でもピープルに一本もない!

メールだったらまだしも!

電話!

それも、タイトルすら分からない、昔テレビで見た思い出の作品を探してくれ、とか・・・

 

しかし、お客さんが探してる作品がピープルにあると

嬉しかったなあ~。

そんな嬉しい結末は数回だけだったけど・・・