pegawa's blog

昔 ピープルという ビデオレンタル屋がありました 都築さまより<a href=http://roadsidediaries.blogspot.com/2009/11/blog-post_11.html>ビデオ・スターの死</a>

レンタルビデオ物語 その11

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高校三年生になって、やっと進路を決めた。

シンセサイザーに憧れた、ただそれだけで、

音響工学

当然、理系。

そのために難しい数学、難しい物理の授業をヤマのように選択。

が、最初の一時間で挫折、

その後、授業はでてるだけな状態。

夏休み入る頃は、半分以上はサボっていた。

卒業単位には足りるように計算して、出なくても単位をくれそうな先生を見極めて、談合。

あんなに、自分の壁を実感して、「逃げろ!」って直感で判断したことはなかった!

 

で、ザ・スターリンのライブをやった大学というだけで、

法政大学に憧れてた。

まあ、法政にも工学部はあったが、ライブはやってない小金井校舎だったから論外。

明治学院でもライブを主催したが、なんかつまんなそう。

神奈川大学は遠いし。

筑波大学は自殺だし。

 

イキナリ文系に変更。

当然、この時点で浪人決定だった。

今なら、就職orニートって選択もあるんだろうが、

進学校だった僕の高校では、

9割近くが大学に行ってたのである!

男子はほぼ100パーセント!

女子だって、ほとんど数人を除いて進学か浪人。

イキナリお母さんになった同級生

(ちなみに、僕はその娘のことが好きだった…。

嗚呼、その時生まれた子供はもう30 か!)もいたけど!

そんな特別な事情でもないかぎり、

知ってる限り、ほとんどの同級生は進学か浪人。

まあ、浪人し続けてあきらめた人もいるだろうが。

 

高校三年生、夏。

一番、大事な時期。

そんな時期に僕は、秋の学園祭に向けて、ビデオ製作の自主団体を学内で立ち上げ、

撮影しまくってた。

吉祥寺、三鷹、是政。

結局、風景をバックに延々パンクニューウェイヴの音楽が流れるものを製作した。

 

 

学校にソニーのベータマックス

(のちに衰退した方式のビデオテープ。当時はVHSとしのぎを削っていた)

のポータブルデッキは、あったのだが、

VHSのポータブルはなかったので、

ビデオインフォメーションセンターでデッキを借りたりしてた。

 

ビデオインフォメーションセンターとは、吉祥寺にある「文化的」な電気屋。

当時まだ、海のものとも山のものともつかなかったビデオ関係の機材をいっぱい取り扱っていた。

と言うか、今もまだある。

湯村輝彦制作による「ビデオ撮影してるビキニパンツの男」が店の看板。

現在は、ナゼカ飲み屋なども経営しているようだ。

 

そのビデオインフォメーションセンターが主催したビデオ上映会で、

SCANNING POOLという芸術家集団を知った。

当時、吉祥寺パルコでPASSやP-MODELの映像を流していて、

(P-MODELは丁度、暗いアルバム『ポプリ』 や

異常なアルバム『パースペクティヴ』

を出していた頃)

それを撮影してたのがSCANNING POOLだった。

ちなみに、先に述べた僕の高校の自主団体は『パースペクティヴ』に憧れて、

階段の踊り場でビデオ流したり、

バンドで演奏したりした。

バンドは高校2年ぐらいから、機械とボーカル。

YMOやP-MODELをコピーしてた。あとセックスピストルズ、ザ・スターリン

でも、オリジナルのほうが楽だし!

なんっと言っても腐ってもオリジナルだし!

あ、シンセはヤマハのシンセ教室に通って操作は覚えたが、

弾けないことに気が付いてやめた・・・・・。

あんなものは機械がやればいいと思ってた。機械も使えなかったが。

歌と踊りとパフォーマンスは機械じゃ無理だし。

PILにも影響受けていた。

まあ、バンドのオハナシはまた別の機会に。

 

SCANNING POOLは、ビデオ上映とフリクションリザードによる演奏の合体という試みのライブを、

目黒鹿鳴館で企画したりしてた。

 

僕はまったくツテもなにもないのにSCANNING POOLに電話して、

「ビデオアートの修行をしたい」

などとトンチンカンなことを訴えかけ、

めでたく手伝いをすることになった。

向こうとしてもさっぱりワケがわからなかっただろうが、

その数倍こっちもサッパリワケがわかってなかったのである。

恐るべき、十代の熱き血潮の闇雲パワー。

 

 

卒業式の日(キチンと出席して、卒業証書を貰う時に舞台でダンスして、母親を赤面させた)、

学校の裏に隠してあったヤマハRX50

(当時乗ってた、原付なのにイージライダーみたいなアメリカンなバイク、だけど転ぶとハンドルすぐ曲がる)

で、原宿までのりつけて行った。

 

ラフォーレ原宿(原宿にある、オシャレビル。何故オシャレかわからんが、とりあえずオシャレ)で、

SCANNING POOL主催のライブがあったのである。

フリクション(その時のライブ)やミュートビート、ゲルニカが出演予定だったが、

ゲルニカが直前になってキャンセルした。

 

このライブの前に、

ビデオ上映素材として川崎や東京湾などいろんなとこにロケの手伝いに行っていた。

一緒に行動した人のことをよく理解してなかったが、

たぶんビデオ作家の人たちだったのだろう。

ビデオ作家の感性?で、工場や波止場を撮影してた。

撮影時期は2月から3月、大学受験の真っ最中。

友は次々に大学合格したり、

浪人が決定したりしてた。

 

SCANNING POOLが間借りしていた原宿駅すぐの事務所に

身体の大きな派手で目つきの鋭いおばさんがいて、

皆に「先生」「先生」と呼ばれていた。

後年、草間彌生だと気がついたのだが、当時はダレだか知らなかった。

たぶん草間先生の事務所だったのであろう。

一身不乱に絵を選んでいた。

先生に「あなたはダアレ?」

と尋ねられた事もあったが、

さっぱり分からなかった僕は

「丁稚奉公です」などとデタラメな答えをしていた。

心の中では「お前こそナンダ?」などと失礼なことを考えていた。

だって、眼光の鋭さが尋常じゃないんだもの。

蛍光の異常な柄のワンピースを来たオバサンなんて、ほかで見たことなかったし。

 

その頃はアートのアの字もしらなかったが、

唯一、ナムジュンパイクだけは知っていた(宝島にも載るサブカル界のオモシロおじさんだったので)

たぶんその影響でビデオアートつくろうなんてトンチンカンな夢を持ったのだろう。

上野の大博覧会(「ナム・ジュン・パイク展 ヴィデオ・アートを中心に」 1984年/東京都美術館 )にも行った。

 

原宿のライブが終わると、

憑き物が落ちたようにビデオアート熱も治まり

(まあ、修行といっても何もできないので、受付で釣銭間違えるぐらいしかできなかったんだが)

最後のSCANNING POOLの打ち上げパーティでの意外とアッパーで豪華な雰囲気に気後れして、

その後フェードアウト。

 

それから後は、人生に2度ないぐらい

代ゼミで勉強しまくった。

文系6大学コース。

当時、代ゼミは無試験で入学出来た(駿台予備校などは、予備校でも入学試験があった)ので、

文系6大学なんて曖昧でオシャレ(?)な人生の踊り場的コースは、

原宿校てこともあって大人気。

場所はなんと、あの草間先生(と居候SCANNING POOL)の事務所のすぐ裏だった・・・・。

ラフォーレ原宿も。

近寄らなかった。避けていた。

 

その大人気コース、最初は大教室で補助席まで出て、立ってる人さえ居たけど、

4月の半ばには中教室になり、

5月には代々木の美術学科コースの建物の一室、会議室みたいなとこに。

ツンツンヘアー、アラレちゃんメガネ、マッ黒いワンピースなどの地方出身のお友達は

まったく授業に出てこなくなり、

かたや、僕は予備校なのに、コースにはない人気の先生の教室に潜り込んだりした。

たぶん、まだ代々木アニメーション学園はなかったんだろうなあ~。

あっても、目に入らない!勉強一筋!

朝から晩まで授業!授業! 

昼ごはんは、代ゼミのなかの立ち食いうどん、「梅もと」!

毎日てんぷらうどん!ジャージ姿のバイトのムスメさんにほのかな恋ゴコロ・・・

でも、午後も授業!

で、家帰って「机はdesk」から始める苦手な英語!

中学生の習うような「月曜monday」、「火曜tuesday」、から始めていた!

それと同時に「タイムから学ぶ長文読解」!

あとは政経!

マルクス、レーニン、小さな政府、ニューディール政策

国語は得意得意!

本は読んでいたから。

 

そんなこんなで、なんとかあこがれの(ザ・スターリンがライブやった)法政大学に合格。

思っていた以上に偏差値どおりの結果だった。

 

まあ、浪人中も全然遊んでいなかったわけではなく、1983年9月1日、

知り合いがすでに入学していた法政に

「BOMB LINE 9.1」 

(出演:アレルギー/コンチネンタルキッズ/GOD/エクスキュート

/人民オリンピックショー~町田町蔵のバンド~)

など観に行った。

生まれて初めて行ったハードコアのライブで、「ダイブ」って文化も見た。

ただし、当時そんな恐ろしいことしてるのは、

たぶん横浜横須賀から来てる米軍の人たちだった。

アメリカンハードコアが本国では流行っていたのだろうなあ~。

まだまだ戦後。

 

ちなみにこのライブは開場が大いに遅れた。

この日が人民のデヴューだった町田先生が

バスドラの音をお気に召さず、

何度も何度も音を直していたから、らしい。

そのため、3時間ぐらい押しになって、終わったのが12時近く!

終電も無くなって帰れなくなったので、ライブ会場の隣にあった、

知り合いのサークルの部屋に泊めてもらった。

なぜかサークル部室に泊まってるのは僕だけで、一人ぼっちで、学内に響き渡る

「勝手に学校泊まったバカは逮捕しちゃうゾ!」的なアナウンスに、

怖くて怖くて、汚い毛布掴んで涙に暮れながら、

「ああ、ここがザ・スターリンがライブしたとこなんだなあ~」と感慨にふけっていた。

東京都民なのに・・・

三多摩住民だったけど。