pegawa's blog

昔 ピープルという ビデオレンタル屋がありました 都築さまより<a href=http://roadsidediaries.blogspot.com/2009/11/blog-post_11.html>ビデオ・スターの死</a>

2024¥ 3月 17日から24日に変更!!ビックE

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ビックE 2017 12 10

MUGRAPHIX presents
RED/GREEN RG-06『熱的死 (HEAT DEATH)』@POOL桜台
2017年12月10日(日)open16:30 / start17:00
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出演:GRANDMOTHERFUCKER(グランドマザーファッカー), BIC-E(ビックE), MAGMATRON(マグマトロン), ANTONIO GIANT(アントニオジャイアント), MANIAORGAN(マニアオルガン)

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BicE 2017

店番の日記

レンタルビデオ「ピープル」の経営がそろそろヤバくなってきた頃、僕の一日はこんな感じだった。
 
 
朝…とは言えないか、とにかく起床後、開店時間の昼2時に来て、のそのそ階段を上がり、映画やバンドライブのチラシがベタベタ貼ってある(ドアは営業中開けっぱなしで表側は隠れてしまって見えないので、宣伝効果はあまりないのだが)ドアを開ける。
 
ドアを開けると、入り口付近にビデオやDVDがケースが落ちて散乱している。
ドアの返却ポストに入れられたものである。
ドアの内側にはクッション代わりの寝袋。
アルバイトのスドウくんがいたころ、彼がお泊り用に使っていた物だ。
 
ドアの裏(つまり営業中、一番最初にお客さんの目に入るところ)には、ザ・スターリンのアルバム「虫」のポスター。

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僕が高校のときに手に入れたものか、お客さんの誰かにいただいたものか。
僕の経営になってから20年は貼ってあったので、まあボロボロだった。
あのポスター、どこにいったんだろう。
 
ドアに貼ったチラシの類は、よく「汚い」と大家さんに叱られて、シブシブ剥がしていた。
僕は店に上がる階段にもポスターとかチラシを貼っていたのだが、汚く剥がれたりするので、やはり大家さんに文句を言われていた。
まあ、それはそうであろう。
放火でもされたら大変。
大家さんは店内の僕の過剰なデコレーションにも苦虫顔であったが、さすがに店の中までは文句は言わなかった。
まあ僕も気を使って、店内でも外からすぐ見える入り口付近のスペースはなるべく綺麗にするようにはしてた。
「なるべく」ではあったけど。
 
入口を入って右手は、物件に備え付けだった靴箱。
中には入会時に使う書類や会員カード、いらないビデオテープケースなんか(ベータとか・・・)が入っていた。
 
その上はコルクボード。
一時は熱心に劇場に観に行ってた映画の感想や、これから出るソフトの紹介などを貼っていた。
資金繰り(主に家賃だが)が苦しくなってきた頃には、そのコーナーはほとんど見ないようにしてたのだけど。
閉店間際には、新しいソフトは月一本入れるのが精一杯だったからである。
まあ、新作を月一本きりしか入れないレンタルビデオ店なんか潰れるわなあ・・・。
 
そんなこんなで、店が無くなる直前のコルクボードコーナーには、雑誌「噂の真相」に出していた広告のコピーだけが貼ってあった。
広告には「セックス・ムービー・ロックンロール」、その下には「祝!セックスピストルズ来日」と書いてあったような。
お友達で今も昔もバンドメンバーでもある、ショウジくんのデザイン。
その広告の出ていた「噂の真相」を探してみたのだが紛失したみたいで、別の広告を載せた号しか無かった。
「早く来いDEVO」。
今考えると、一体なんの広告なんだか。

 

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僕が経営者になった最初の頃は好景気で、ソフトメーカーが宣材で作るポスターもデカくて、気前よく次々と送られてきていた!

バブルがはじけた後も、しばらくは「ひみつの花園(1997)みたいなイマイチ売れなかった映画のソフトにも、横3m近くある横断幕なんかを付けてくれた。
その横断幕、階段に貼りだしたら、その日のうちに盗まれた。
マイナー作品ではあったが、主演の西田尚美はその当時「ノンノ」の人気モデルだったからかなあ。
ちなみに「ひみつの花園」は、ピアフィルムフェスティバルで賞を取った矢口史靖監督が東宝2作目に撮った作品。
僕は、建て直す前の新宿ピカデリー4で観た。
昔の新宿ピカデリー4っていうのは元雀荘を改装したショボい劇場で、キャパは40人ぽっち、スクリーンのカーテンが開くと、あまりの画面の小ささに笑い声が起きるという酷い所だった。
よくあの当時の東宝は、そんなマイナー映画のビデオ化によくぞそこまでチカラをいれたものだ。
矢口監督はのちに「ウォーターボーイズ (2001)でスマッシュヒットを放ったが、実はその間に何本か撮っている。
完成させられなかった作品もあるらしい。
大してヒットしなかった「ひみつの花園」でさえそうなんだから、ブラピ主演の世界的メガヒット「セブン」(1995)がソフト化されるときなど、FBIが使うような立ち入り禁止リボンロールなどいろいろ入った装飾セットを、ソフトメーカーは段ボールいっぱい送ってくる力の入れようだった。
あったなあ…店内装飾用キット!大好きだった! 店が派手になって!
たった一本づつしか入荷しないうちみたいな店にも、メーカーはそんなキットをふっとぱらにくれていた。
ちなみにその頃、ヤフオクなどのインターネットオークションが始まり、業務用のポスター等、宣材を売りに出すヤカラがいっぱいいた。
だからいまだに、ネットオークションは虫が好かない。
同業者でそういうことしてる人はいなかったと思いたいが、怪しい人はいたなあ。
うちに出入りしていた問屋さんがヤフオクの素晴らしさを語っていたけど、もしかしたら・・・。
でも、そのうち、メーカーから送ってくるポスターは見る見る減ってきた。
どう考えても、1本しか仕入れてくれない店より、10本…いや100本入れるツタヤなんかに送ったほうがいいに決まってる!
零細企業ピープルは、仕入れが毎年、逆倍々ゲーム的に半減、問屋への入金も遅れ気味だった。
しょうがないので、業界誌に出ている新作案内の広告を切り取って、店に貼ったりしてた。
なんかいま思い出すと悲しい。
閉店間際など、昼は別のとこで働いて夕方から店を開けるダブルワークだったので、ポスター張りに精を出す余裕は無かったけど。
ヘトヘトで。
ポスターとか張り紙の話が長くなってしまった。
まあ、そんなこんなで店を開けて、まず、返却されたビデオソフトをカウンターにひとまとめ。
タバコを吸ってたころは、そこで句読点に一服してた。
あ、朝の大事な行事に、コーヒーカップ持って近所のモスバーガーに朝の一杯を買いに行くというのがあった。
不用心だとは思うが、店を開けてからお出かけしていたのである、近くだし。
毎日一人ぼっちで店番だったので、朝にモスの店員さんと他愛もないオハナシすんのが楽しかったなあ。
先にモスバーガーが潰れたけど。
それからは朝、駅前でドトールコーヒー買ってた。
無駄づかいだったなあ。
ランチに凝ってた時もあった。
ちょっと早く起きて、近所のスナック、隣の博多ラーメン。駅前のうどん屋、洋食屋。
洋食屋以外は全部つぶれた。
2時開店になる前は12時開店だったから、11時半に行って食べてた。
まあ、11時半にランチ食ってると12時開店には間に合ってなかったんだけど。
2時に店を開けて、コーヒー飲んでいても、客が誰一人こない・・・。
12時開店だったころは、近所の工場の工員さんが昼休みに暇つぶしがてら毎日覗いてくれた。
あと、歌舞伎町風俗案内のにいちゃん。毎日、歌舞伎町で風俗を探す客が納豆くさいと怒ってた。
吉原ソープで働く御姉さんも、白い毛むくじゃらのちっこいワンコ連れてきてたなあ。ノーメークで、たまに腹巻すがたの角刈り恰幅のいいパパ連れて。
新宿西口海賊版屋のお兄さん。ジミー・ペイジが来日する前は、忙しそうだった。
ディスクユニオンのおにいさんは、セール前はイライラ。
新宿2丁目の優男は、店には来るけどいろいろ言って絶対借りない。
毎日来る、無職の三十代。毎年センター試験を受けていた。40になっても。
2005年ぐらいから、そういう胡散臭い人はめっきり減った。
というか、客の絶対数が減ったのだ。
客が来ないので、テレビでワイドショー見ながら昨日の売り上げ計算。
コンピューター内蔵レジはずいぶん前に壊れたから全部、手動である。
伝票もただの2枚複写。
 
1泊用と1週間レンタルをわけて。
90年代には50枚綴りの伝票を2日で使い果たす事もあったのだが、ゼロ年代以降は1週間ぐらい持つようになってしまった。
最終的には、伝票未使用の日も!
伝票未使用ということは、貸出がまったくないということである。
ただ、最後まで売り上げ無しの日はなかった。
売り上げの最悪記録は、延滞1200円のみの日!
延滞金が発生して、かろうじて売り上げがたったという・・・。
これで「もう店を閉めよう」と観念した。
家賃15万だから、単純計算で一日の売上が5000円以上なければ、家賃にもならない。
 
開店時間を午後2時にして以降、あまりに誰もこないので、作業が一段落した3時頃、昼ご飯を買いに行く名目で外出するようになった。
最初はキチンと鍵しめて、「ちょっと外出します」の張り紙をして、近所の文房具屋さんで自転車借りて。
昔は資金繰りの件で信用金庫いったりしてたので。
そのうち、開けっ放しで「すぐもどります」の看板をカウンターに置いて。
そのうち、店開けっ放しのまま、張り紙も何もなしで、近所をフラフラし始めた。
ゾンビ。
駅前行って、コーヒー飲んでたりしたころは流石に自分でも「これはマズイなあ…」と感じてた。
駅と逆のほう住宅街をフラフラしてるときは心が和んだ。
なにも解決しないけど。
店いないと売り上げに何もならないけど、誰もこない店にはいたくない、逃避行な気持ち。
 
で、帰ってきてお客さんいるとビックリしたり。
お客さんもビックリしたり。
30分待ちました。」って言われたり。
ダメだこりゃ。
 
気が向いたら、階段の掃除。
モップ借りて本格的に水浸しにしてみたり。
表掃いたり。
雪なんか降ると大喜びで雪かき!
でも店内の掃除はあんまりしなかった。
特に店の床にビデオパッケージを直に重ねて置いて、足の踏み場もないようになったころは物理的に「ちょっと掃除」が無理になっていた。
諦観の精神。
 
昼間の暇な時間にちゃんと品出しの仕事をすることもあった。
ゼロ年代になると、そんな作業は週一もなかったけど。
ソフトの主力がビデオテープの時代はまだ、パッケージシュリンクしたり、映画の紹介文書いたり、パッションがあふれていたんだ。
DVDになってからは・・・昔話ばかりしてた・・・。
後ろ向きになってDVDの新しい仕入れのことを考えず、昔はよかったってことを、大量のビデオテープを前に自問自答してたのである。
ダメだなあ。
 
午後4時過ぎると、本格的なヒマ人がお客さんとして代わる代わる来店するようになる。
店に入ると、2時間3時間物色している人もザラ。
その時間帯だと、まだ僕は現実逃避の散歩をしていたりもしたのだが、僕がいなくても気にせず物色しているので問題なし。
狭い店でじっくり品定め。
僕は(店にいれば)カウンターの裏でのんびり。
じろじろ見てもしょうがないし、盗られるものもそんなにないし。
店内はレンタルのパッケージ以外にも売り物のTシャツ類、CDなんかも置いていたけど、不思議と万引きはなかったなあ。・・・多分。
まあ、きちんと在庫管理していなかったのだが。
ついこの前「貴重本を入荷したら、全部盗まれる」という夢を見た。
いまさらのように不安になったが、もしかして万引きってあったのかな?
販売用アダルトDVDシュリンク包装だったので中身入りのまんま店頭に出してたけど、ごっそり減ったことはなかった。・・・と、思う。
万引きしがちな年頃の中高生ボーイズ&ガールが来なかったから、店をやってた時はあまり不安な気持ちにはならなかった。
学校で「あそこ行ったらダメ」と言われているような、パブリックエネミーショップだったのか?
僕の店は元過激派シンパのバンドマンさんからも「恐ろし気な店だった」と言われていたし。
笹塚が実家だったという人と話すと、たいてピープルの存在を知ってるけど「フツウのビデオを扱ってた」というと、ビックリされる。
 
あ、もう夕方だ…。
今日も客がろくすっぽ来ないうちに、夕陽が沈む。
夕陽が沈む、イコール金融機関が閉まる。
ということは、返済の催促の電話が来なくなる時間なのでひと安心。
あ、だから、僕ゾンビになってたんだ…。
そう、あの頃、僕は借金まみれだった(またその話は別の機会に)。
いい電話なんかなかった。
 
基本、一日中自問自答してた。
 
夕方すぎると、なにもしなくても腹は減る。
近所の弁当屋で、揚げ物系。
なにも言わなくても大盛にしてくれた。
太った。
ストレスを食欲で解消していたんだと思う。
 
お酒は、お店ではお正月とお祭りの日以外は飲みません。
それだけは、ラインがあった。
当たり前だけど、よくやったと思う。
飲もうと思えばだれも止めない。
自営業者の怖さ。
なるべく、表に出て近所の人とおしゃべりしてたのも、その抑止力かも。
 
7時に、夕ご飯食べてからが長いんだ・・・。
テレビを見たりしていた。
一番多いのが「男はつらいよ」シリーズの永遠ループ。
全巻、20回づつは見た。
というか、聞いてた。
今でもセリフは大体覚えている。
役にはたたないが。
もっと、他にいくらでもあるビデオソフト見ればいいんだが、集中力が続かなかった。
店に来た友達は、狭いカウンター後ろで一日中、アニメや映画観てたけど。
すごいなあ。関心する。
映画は、毎日一日一本を自宅に帰って観ることを自分の決まりにしていた。
40すぎると、観ながら寝落ちしてる時間がながくなったりする・・・巻き戻し巻き戻し。
 
7時すぎると、少しは忙しくなる。
誰も来ない日もあるけど。
910時になると、酔客もチラホラ。
基本サラリーマンが多かった。
笹塚は、新宿からすぐの、チョンガーのベットタウンだし。
酔ってる人に入会の説明は大変だった。
借りるのは大抵、というか絶対アダルトだし・・・。早く借りて帰りたいだろうし。
 
真夜中12時過ぎると、街も静かに。
そうするとまた、僕はゾンビになってフラフラしたりしていた。
深夜、店来て店員も誰も居ない店。
怖かったろうなあお客さん。
 
夜中1時が閉店時間。
でも、閉店間際、1250分にお客さん来ることもあった。
そのまま、110分、130分。
僕も急がないから、ぼんやり待ってるけど。
大抵一本は借りてくれたけど、2時近くになって、気が付いてたら帰っていたときはショックだった・・・。
 
トボトボ帰宅。
大昔、景気の良かった時代には、大金を夜中に持ち歩くのは危険なので売り上げを銀行の深夜ポストに投げ込む習慣もあったけど、その頃は逆の意味で危険なぐらい売り上げが無く、深夜ポストには縁がなかった。
近所の深夜自動販売機でビールを買ってご帰宅。
 
ゼロ年代になってから、水曜を定休日にした。
火曜の夜は楽しみだったなあ。
それまでの数年間、バイトを雇う余裕がなくなって以降は、無休で365日、昼2時から夜中2時まで、延々一人でやってたから。
 
さあ、明日もがんばろう。
とは、毎日、思わなかった。
だから、やっていけたと思う。

ラッパーズ 7


THE原爆オナニーズ「GO GO 枯葉作戦」 - YouTube

 

へヴィーメタル、という言葉がある。

僕が80年代末から90年代初頭にかけてやっていたバンド、
ラッパーズが出したソノシートのタイトル「メタァル」は、
それから名付けた。
キーキーうるさい演奏とガーガー騒がしいヴォーカルの混沌の中から、
キラキラしたハードコアな美しいものを見つけだす作業である。
意味はないが、尊いものだ。

ラッパーズを結成したころ、
ある飲み会で、元エクスキュートで当時ハイライズのドラムだった氏家さんとご一緒した事があった。
面識は無かったのだが、厚かましくも
「僕はラッパズボンを履いて激しいロックをやってるんですが、
何か参考になる音楽などあったらぜひ教えて下さい」
とアドバイスをお願いした。
その時、氏家さんも当時は履いている人も少なかったラッパズボンを着用していたので、
訊かずにはおれなかったのである。
見ず知らずの若造の不躾な質問にもかかわらず、彼は快く
アイアン・バタフライブルー・チアー、それにMC5を聴くといいよ」
と教えてくれた。
早速レコード屋で探して聴きまくり、非常に感銘を受けたのだった。
これが、僕が最初に意識したヘヴィーメタルだ。

当時、他にガツーンとやられたのは原爆オナニーズと非常階段の合体バンド、
その名も原爆階段
彼らがすごくうるさいアレンジで演奏していた
マウンテンホークウィンドブラック・サバスなどのヘヴィーメタルバンドの数々・・・!


東京ロッカーズを描いたドキュメンタリーフィルム
ロッカーズ」の中で、フリクションが演奏するレッド・ツェッペリンのカバー
コミュニケーション・ブレイクダウン」にもココロ打たれた。
ファーストアルバムに入ってる名曲だ。
燃える飛行船!

ザ・フーも!
ババ・オライリィ」のリフのかっこよさ!
ヴォーカルのマイクぶんまわし!

そしてビートルズ
ホワイトアルバム」収録の名曲「ヘルタースケルター」!
元祖ハードロック!いや、元祖ヘヴィーメタル!!

ミュージックマガジン」でヘヴィーメタル特集を読んで勉強もした。
ヘヴィーメタル」の語源はステッペンウルフ
ボーン・トゥ・ビー・ワイルド」歌詞中の「ヘヴィーメタルサンダー」から来てるという珍説など、
ミュージックマガジンらしい斜め上の特集ではあったが、
「真のヘヴィーメタル原爆オナニーズだ」
としめくくってあった!
ダレがなんと言おうと納得した。
僕が法政大学学生ホール、通称ガッカンの高いステージから何度もダイブした、
あのエディの骨太ビートの原爆!!!!
何回かは受け止めてもらえず、頭を打ったのもハードコア!

ラッパーズはそれらを直接カヴァーしたり、エッセンスを取り込んだりしたのだった。

そう言えば、こんな事もあった。

あの頃、僕はウォークマンのパチもんを持ち歩いていて
(当時の彼女の持ち物だったが、ずーっと借りていたのだった)
毎日、当時出たばかりの日本のハードコアパンクバンドの音源を聴いていた。
キチガイみたいなヴォーカルと軽妙でハードなギターサウンドの数々!
リップクリームギズムカムズガスタンクなどのバンド当時のヘヴィーローテーションで、
海に行くときも普通に聴いていた。
新島の浜辺には、ガスタンクとギズムのメタリックなリフがよく似合った。

ある日、ベイサイドにあったライブハウス、芝浦インクスティックでジャズのイベントがあり、
そこで臨時雇いの機材搬入のバイトをした事があった。
ちょっと機材の搬入と終わった後のバラシをやるだけで、何千円も日当が出る遊び半分のお仕事。
バブルの頃は、そんなぬるいバイトが沢山あったのだ。
かなり暇なので、タバコ吸ったりしながらブラブラしていたら、ジョン・ゾーンがいた。
出演者じゃ無かったと思うので、ライブを観に来ていたのか?
当時彼は確か高円寺に住んでいて、
ガッカンでやっていた学生企画のライブに何度か出演していたと思う。
僕の中では、難しいジャズをやる人のイメージがあった。

彼はその時、どういうつもりなのか、コンサートそっちのけで、そばにいるスタッフやミュージシャン、誰彼かまわず自分のウォークマンで音楽を聴かせまくっていた。
みんなイヤな顔をしたり、苦笑いをしたりしている。
なんだろう。
面識が無い、学生バイトの僕にも薦めてきたので、イヤホンを耳に突っ込んだ。
聴こえてきたのは、ジャズではない、激しい音楽。
意外だった。
「これなに?」
ジョン・ゾーンにたずねた。
スラッシュメタル!」
「こんな音楽が好きだったら、日本にはリップクリームが居るよ!」
今度は、僕のウォークマン(パチもんだけど・・・)を聴かせる番だ。
リップクリームを聴いた彼は、とても喜んだ。
あの頃、ジャズマンはロック、特にヘヴィーメタルやパンクなどてんで馬鹿にしていて、ハナもひっかけなかったのに。
意外だった!
けどうれしかった。
同時代を生きてる実感があった。

その後しばらくして、ガッカンにジョン・ゾーンのライブを観に行ったら、
前座にS.O.B.が出てきて大いに驚いた。
その驚きもつかの間、次にはリップクリームのPILLさんも登場!
ビックリした・・・。
あの当時、あれだけガッカンに出ていたジョン・ゾーンだ。
ハードコアパンクに人脈ができてもおかしくはない。
でも、ひょっとして、あの時に僕が芝浦インクのバックステージでリップクリームを聴かせたのが・・・・・なんて事も、思ってしまうのだ。

ちなみに、今でもやるジョン・ゾーン主催の音楽ゲームコブラ
80年代の後半にこれが開催されると、絶対に坊主頭の革ジャンパンクスが紛れ込んでいた。
大阪のオイパンクバンド、コブラと勘違いしたのである。
もう会場に椅子がある時点で間違えたと気がついただろうけど、それでも彼らは彼等は神妙に聴いていた。
でも、次のコブラにもそのパンクスは来ていたのだった。


僕の音楽に対する掟は、
「それは、ヘヴィーメタルか?
ロックンロールか?
ハードコアか??」
である。
それはジャンルではない。
キラキラとした、美しいものなのである。

僕がガッカンで何度も観た。
きらめくミラーボールの中で演奏された、裸のラリーズの、何台も並んだマーシャルの強烈フィードバックギターのように・・・・・

そして、それは
「死ぬことができないもの」
なのである。
いつまでもいつまでも、耳の奥でずっと鳴り止まないものなのだ。

そういう地獄のすばらしいものを作っていきたいのである。
硬いとか重いとか速いとかそんなのは関係ないんだ!
ヘヴィーメタルは!!

ところで、メタル専門誌「BURN!」に出てくるバンドは、なぜあんなにベードラがペタペタ軽いんだろう?
それだけが謎だ!

 

ラッパーズ 6 ガッカンライブ


ラッパーズ゙ in 法政 1989/09/09 - YouTube



80年代中盤に始まった、
サブカル誌『宝島』主体の大人が作ったインディーズブームは、
イカ天』を起爆剤とし、
80年代後半にはホコ天やライブハウスを中心にした一大バンドブームに発展した。
とはいえ、地道にライブやらメディアで顔を売って大手メジャーからデビュー、
という、昔ながらの芸能界的図式は変わらなかったけど。

世はバブル。
人気のあるアマチュアバンドがライブハウスで行う
ワンマンや自主企画で数十万のギャラが出るような異常事態は、
世知辛い今と違った。
実際、そんなライブや企画を月に数回やって生活してる者さえいたほどだ。

我がバンド、ラッパーズは、
残念ながら人気にも大金にもメジャーデビューにも縁がなかったが、
それでもその時代には1000人以上の観客の前で演奏した事があった。
忘れもしない、1989年9月9日。
当時の人気バンドであり、「バカロック」ムーブメントの旗手でもあった、
グレートリッチーズの前座として!

グレートリッチーズ(以下グレリチ)とは、元々個人的に仲が良かった。
車の運転もギターのチューニングもできない僕はローディーとも言えず、
楽屋のマスコット、ステージからのダイブ役として
よく彼等のライブでウロウロしていた。
あるときキーボードとしてメンバーに入らないかと誘われた。
ヤマハシンセ教室しか出てない僕は断ったが、
ヤマハキーボード教室に通えばいい、
お金はグレリチが出すからとまで言われた。
面倒なので後輩を紹介した。

スギウラくん。
今でも「杉浦フィルハーモニーオーケストラ」や
さまざまなアーティストのレコーディングやライブなどで、
イロイロご活躍のご様子

そんな彼らが法政大学学生会館、通称ガッカンでワンマン企画をやる事になり、
僕が参加していた演芸コンビ「マジックくんとピアニカくん」に出演依頼が来たので、
悪賢い僕は、バーターでラッパーズもつけたという次第。
なんてイヤなヤツだ!

ちょっと説明しておくと、ガッカンこと法政大学学生会館とは、
学生だけの力で自主運営されていた、法政大学市ヶ谷キャンパスのホールのことだ。
企画、製作、音響、照明が学生の手によって行われていた。
ロックコンサート以外にも、演劇、映画上映など色々な催し物があった。
学生が自主管理していたのである。
施設の鍵の管理から、企画の選択まですべて!
しかも採算度外視で!
伝説のパンクイベント東京バトルDAYSや、
ジョン・ゾーンやフレッド・フリスの公演などが有名だけど、
世間的にはまったく無名なミュージシャンが、
広いホールの中でたった数人のお客の前演奏することもあった。

僕は法政多摩一期生で市ヶ谷キャンパスではなかったが、
ガッカンにはお手伝いで出入りしていたのだった。

多摩キャンパスの同級生を連れて行ったとき
「ああ、ここは30年ぐらいではできない場所だなあ」
って言ってたのが印象に残っている。
歴史がない多摩キャンパスの僕らには羨ましかったのだ。
ガッカンについては、あの当時行った事がある人しかわからない、独特の雰囲気があった。
アレが真の自由だった。
もうなくなってしまったけれど・・・。

話戻ってガッカンライブ。
ザ・スターリン東京バトルDAYSもかくやという
1000人以上の観客でビッチリ埋まったガッカンのホールに、
出囃子のP-MODEL「アナザーゲーム」が鳴り響く!
その中を、クラフトワークに敬意を表して頭から工事用のカラーコーンをかぶり、
ホールの上、照明を当てるとこから僕は登場。
マイクはたしか当時出たばかりだったワイヤレスタイプ!
レンタル料すら高価だったワイヤレスマイクはすぐにスタッフに取り上げられたが、
僕は自前のマイクも持ってきていた。
当時、ザ・フーとリップクリームに憧れてマイクをグルグル回すことを練習していた僕は、
あらかじめいきつけのスタジオで壊れたマイクをもらっていたのだった。

そのマイクでグルグル。

壊れてるし繋がってないので音は拾わないのだが、
PAをビックリさせるために回したのだった・・・。
PAさん、たぶん、怒ってたろうな。

僕は、それがうけると思っていたのである。
バカである。
勝手に盛り上がった僕は、客の中に突入!
ビッチリすぎる客の下に入る隙間はない!

その上を僕は泳いだ!
グレリチ目当ての客は、僕ら前座には興味すらない。
「帰れ」「ふざけんな」という罵倒が、耳に突き刺さる。
なかなかの快感であった。

演奏後、ジミヘンなMムラくんはギターを叩き壊した。
さすがに火はつけなかった。
それから、客と握手していた。

なにはともあれ、
僕の中で最高の人間の前で歌った体験であった。
ラッパーズのあと、ちゃんと演芸も汗だらけでピアニカ吹いた。
着替えたけど。


その(グレリチの客が)熱狂のガッカン翌日は、原宿ホコ天でもライブだった。

バンドブームのもう一つの花がホコ天だった。
一時期は100バンド以上がひしめいていたと思う。
演奏場所の確保だけで、朝3時から!
場所取りを仕切ってる謎の団体(ヤクザ?)がいて、
それでほとんど良い場所は埋まってるという噂もあった。
それだけ出演バンドが多かったのだ。
客も多かった。
大金も動いていたんだろう。
ブームの終わり頃は、トレーナーを腰や肩に巻いた業界関係者も暗躍していたらしい。

前述した通り、
我がラッパーズは人気にも大金にもメジャーデビューにもトレーナー野郎にもヤクザにも縁がなかったが、
その日は友達のバンド「へたくそ」とのびのび演奏をした。
ただ演奏するのはなんなので、わざわざスモークマシンまで用意して。
本当はザ・スターリンやハードコアパンクの人たちがやっていた、消火器ブチマケをやってみたかったのだ。
ただ、あれはホントにやるとタイヘンなことになる。
いったい何度、消火器をガッカンホールでブチマケラレテ泣きながら片付けたことか・・・。
そこでスモークマシンである。
あれは冷たいんだな。

ポカポカ陽気の中、最前列で眠ってるお客さんめがけてピュシュー!
かけられた客はさすがにビックリしてたが、数万払ってレンタルした割には、あまり演出効果はなかった。

なにはともあれ、まったく意味がなくお金も歴史にも残らない。
まさにロックンロールな牧歌である。

ラッパーズ 5 CDの巻


ラッパーズ 1990/06/23 川崎クラブチッタ - YouTube

1990年。
ラッパーズは遂にCDデビューをした!
・・・・・・といっても、自主制作だけど。

80年代中頃のインディーズブーム以降は、
初期の自主製作レコードの時代とは違い、
アンダーグラウンドでも有名ドコロのバンドは、
いわゆる「インディーズレーベル」から音源を出していた。
レーベルが、レコーディング費用やプレス代を融通し、
流通、宣伝、通販などをするのだ。

それをラッパーズは、全部自分でやった。
どこのインディーズレーベルも相手にしてくれないので・・・。
レコーディング費用も、プレス代も、流通も宣伝も、当然全部自前。
それが普通の自主制作。

普通じゃなかったのが、
フォーマットに、今ではまったく見なくなったCDS
いわゆるCDシングルを選択したことだ。
若い人は、多分知らない人が多いのではないか?
普通のCDが直径12センチなのに対し、8センチ。
トレーに溝が無かったり、
スリットタイプのプレイヤーで掛けるには
アダプターを付けないと再生出来ない、
と言う手間が掛かり過ぎるアイツ。
ジャケが短冊型になっているブツだ。

それから、当時でもあまり見なくなっていたソノシート
ザ・スターリンの真似して、
ソノシートの色は赤(肉)って最初から決めていた。

CDSには4曲、ソノシートには2曲収録することにして、
レコーディングは下北沢のライブハウス、
屋根裏の上にある同じ経営母体のスタジオ「アンティノック」でやった。
エンジニアは、当時ジャムスタや屋根裏でリップクリームなんかを
バリバリレコーディングしていた三原くん。
曲も少ないので2晩で全部録ることにした。
主にCDS用。
ソノシートCDシングル収録曲のバージョン違いと、
川崎クラブチッタでのライブ音源を入れる事にした。
これも、ザ・スターリンのアルバム「トラッシュ」の影響・・・・??

CDS一曲目は、ほとんどショウジくんの打ち込みで、
録音はほぼ2時間ぐらいで終了。
で、ほかの曲もドラム、ベース、ギターを3部屋同時に、
ちゃっちゃと録音する手はずだった。
ベーシックトラック録音は数時間で終わらして、
ギターとボーカルのオーバーダビングも駆け足で済ませようと言う算段。

しかし・・・・・
ワン、トゥー、スリーのカウントで始まった演奏は・・ガタガタだった。
録音時のプレイヤーは、件のジャズマンYくんも含む、
歴代メンバーの中でもかなり上手な人たちだったはずだ。
その上手なはずのドラマーとベースが合わない!
ドラムが、止まる、ベースがずれる、ギターも止まる・・・。
あんなにライブ上手いのに!
止まる止まる!
時間は過ぎる過ぎる・・・。
そのうち、通称ドンカマ、
いわゆるリズムボックスをリズムキープ用に使おう、
なんて言い出す人も出てきて、収拾がつかなくなってくる・・・。

これが、自主制作の恐ろしさ。
まあ、僕がしっかりしてないせいだけど・・・。
ディレクターなり、プロデューサーが船頭しないとこうなる。
結局、その日は満足に録れず・・・。

リップクリームのドラマー、PILさんの名言
「40分のレコード作るのには、40分時間があればいい」
というのが、ココロに染み渡った・・・・。

不幸中の幸いなのは、
当時の録音方法はオープンリールMTRを使ったアナログ録音だったことだ。
2インチ幅のぶっとい磁気テープに、トラックを分けて録音する。
あの時、僕らが使ったのはたしか16トラックだった。
つまり音を重ねようと思っても、最大16回しか重ねられない。
2インチのオープンリールテープは高価だったし、
アナログ録音の宿命で、あんまり録り直すと当然音が悪くなる。
そう何回もいろんなテイクを録るわけにいかない。
もし、今の様にデジタルで数十回、数百回のテイクが保存できるとなったら・・・・
恐ろしすぎる・・・。

結局、2日で録るはずが、倍の4日ぐらいかかった。
スタジオ代もかさんだ・・・。
結局、収録には最初に録ったものを使ったんだったかな・・・。

ミックスダウンは楽しかった!
ディレイで色々遊んだ。
それから、パンニング。
音の定位を変える、つまりステレオで、
音が右に行ったり左に行ったりするアレだ。

当時はコンピュータ制御のオートミキサー卓なんて
アマチュア用のスタジオにはないので、つまみを手動でグルグルいじる!
それも、2インチ16トラックマルチから4分の1インチの
チャンネルマスターテープに、一発勝負でダビング!

昭和だなあ~。

メンバー数人と三原くんの手総動員で、つまみグリグリ!

他にもきっとイロイロやったんだろうけど、そのことしか覚えてない。
スタジオ使わずにコンソールだけでできるので、
結構時間かけてやったような気がする。

さっきも言ったように、2インチテープは非常に高価なので、
僕らには買い取ることが出来なかった。
と言うか、当時のアマチュアの録音の場合、2インチテープは大体使い回しで、次々と上書きされてしまうのが普通だった。
きっともう、ラッパーズの録音も、上から違うものが録られているだろう。
というか、今時マルチテープなんかもう使ってないか。

マスタリングはプレス屋さんにおまかせ!
まあ、マスタリングって何なんだかよくわからない作業なので、
おまかせするしか無かったのだが。
今でもよくわかっていない。

ジャケットも凝った。
プロのイラストレーターにン10万円で発注して、こだわりの5色刷りだった。

その様にして音源が出来たら、次はレコ発!
ラッパーズは無名バンドのくせに、生意気にも渋谷ラ・ママをおさえた!
対バンは、なんと、マリア観音原爆オナニーズ
無謀であった・・・。
宣伝はいっぱいしたけど、集客は散々。
わざわざ名古屋から来てくれた原爆さんには本当にすまなかった・・・。
「ラッパーズってホント、人気ないんだねえ~」
と、シミジミ言われてしまった。
無謀ついでに、大阪、名古屋にレコ発ツアーにも行った。
雑誌や、地方の自主制作のお店に、プレスキットを作り、
サンプルとテープを送り、記事にしてもらうように頼んだり、
店に置いてもらうようにお願いしたりもした。

そんな風に、録音、営業と色々努力はしたんだけど、
僕らの音源は、結局ほとんど売れなかった・・・。
今でも、ソノシートの在庫が押入れにある。

三軒茶屋フジヤマに置かせてもらいにいったら、
友達のバンド「へたくそ」と並べて
「本当の自主制作コーナー」
を作ってくれたのは、ホントうれしかった!
自主制作でCDSを作ってる様な酔狂なバンドは、
そのくらいしかなかったのである。
あの頃、僕らの音源を置いてくれたお店は、
フジヤマとディスクユニオン以外はほとんど閉店して、残っていない。

実は、僕は今、あの時作った自分たちのCDSを一枚も持ってないのだ。
フジヤマに買いに行かなくては!

 

あ、ちなみにソノシート

いぬん堂で取り扱ってます。

 

 

ラッパーズについては

ここ にも!

ちなみに

2014年8月2日 江川 くん祭り と題して

 ビックEのライブあり!

 桜台POOL

 へらちょんぺも出る!

 マジックくんとピアニカ君で

 ビデオピープルのドキュメント のパイロット版も上映!
 くわしくは ココ

ラッパーズ 4イカ天


1989年 ラッパーズ - YouTube

 

大学時代に結成した僕のバンド、ラッパーズ。
だが、僕以外のメンバーはコロコロと代わった。
キング・クリムゾンの影響である・・・・
と言うのはウソだけど、なぜかメンバーが次々と辞めていくのだった。
頑張っても頑張っても、ちっとも売れないからか?
それとも、僕の音楽に対する態度がいい加減だから?
理由はきいたことがない。

メンバーが辞めると大学にいるウデキキの人間をツギツギにスカウトし、
辞めたらまた次の人間をスカウト。
これを繰り返しつつ、淡々と練習とライブを続けた。

そんな何人も代わったメンバーの中に、ジャズ畑のドラマー、Yくんもいた。
彼は、ジャズマンなのにナゼか気が合い
(昔のジャズマンはとにかく高飛車で、
ロックを馬鹿にしていた人が多かったのだ)僕らに付き合ってくれた。
MCをするのが大好きで
「ジャンジャンバリバリ出してマス!」
などと意味不明なパチンコ屋の店員の物まねををするのが
ちょっとヤだったけど、ドラムがうまいのでガマンした。
彼を連れてライブハウスにいくと、対バンのドラマーたちが、
こぞって彼を質問攻めにしていた。
叩き方が根本的に違うらしく、ロック畑の中、
ジャズマスターYくんはモテモテだった。

今でも現役バンドマンに
「あのころのラッパーズのドラマーはジョウズだったよなあ」
と言われる事があり、なんとなくくすぐったい。

あと、「へたくそ」ってバンドと掛け持ちで参加していたMムラくん!
僕にビッグマフの素晴らしさを教えてくれた!
辛いものが大好きで、いつも汗だらけだったのもよく覚えている。

それから、長崎出身の同級生Mツシタくんと、
Mツシタ弟&その友達たち!
Mツシタ弟とその友達たちは以前から長崎でバンドを組んでいて、
ベース、ドラム、ギターとパートが一通り揃っていた。
そんな彼らがバラバラに上京してくるので、
当時僕が住んでいた4畳半のアパートの部屋が空くと
彼らを大家さんに斡旋し、
ついでにラッパーズにも参加させのだった。
 (参照 ピープルと猫) 
その後、彼らは違うバンドで羽ばたいていったのだが、それはまた別の話。

 

そんなある日。
ラッパーズは、あの「イカ天」に出ることになった。
イカ天」こと「三宅裕司いかすバンド天国」。
時代はバブルもひと段落して、
世間ではボチボチ「景気が悪い」って言葉がささやかれ始めた頃。
89年よりTBSで放送された、
その土曜深夜のバラエティ番組は、
80年代中期のインディーズブームから始まっていた
「静かなバンドブーム」を一気に大爆発させた。
5週連続で勝ち抜くと「グランドイカ天キング」の称号と
メジャーデビューのチャンス(!)が与えられるのであるのだ。
要するに勝ち抜きバンド合戦だった。
が、演奏が駄目だったり、曲がつまらなかったりした場合、
審査員(萩原健太伊藤銀次などの音楽業界の大物以外にも、
何故かラッシャー木村などもいた。まあバラエティーだし・・・)
が赤ランプを押し、
その数が多くなると演奏VTRは強制終了と言う辱めを受ける。
ブランキージェットシティーやBEGIN、
たまなんかも輩出した人気番組だったが、イロモノも結構出演していた。
まあ、バラエティだし・・・。

その番組に、ラッパーズも出ることになったのだ
(と言うか、自分で応募したんだけど)。
番組自体は生放送なのだが、演奏は別日に収録なのだった。
ハリキッた僕らは、
近所の居酒屋にスポンサーになってもらって、衣装を新調。
当然、衣装のバックプリントはその店の名前入り!
どういう経緯だったか忘れたが、
収録時のラッパーズにはラップランドフリークスっていう知り合いのバンド
のヴォーカルも特別参加していた。
あれはナゼだったんだろう?
僕だけじゃサミシかったからかな?
僕の歌が下手だからかな?
よく覚えてない。
収録は和やかに終わった。

放送当日の生放送は日比谷のTBSに夜9時ぐらいに集合、
リハーサルなしでいきなり本番だった。
弁当は出なかった気がする。

Mムラくんが、
ジッタリンジンのヴォーカルって生意気そうでキャワイイよね」
と、楽屋で言ってたのが妙に記憶に残っている。
彼女たちも僕らと同じ日の出演だったのか、
それともビデオか別の日の放送を観たのか、それは覚えてないんだけど。

そして生出演。
僕は緊張のあまりシドロモドロになって、司会の三宅裕司に向かって

「社長、社長!」

と叫んでいた。
なにがなんだかワカラナイ。
僕の当時のバイト先の社長が三宅裕司に似ているっていうことを
伝えたかったのだが、緊張のあまり頭がショートしてしまった僕は、
すべてをぶっ飛ばして

「社長、社長!」

と連呼していたのだった。
苦笑いする三宅裕司
恥ずかしい・・・・。
「ラッパーズにはメンバーが100人いて、子供だけの子供ラッパーズもある」
なんて大法螺もふいて、スベった。
苦笑いする三宅裕司
恥ずかしい・・・・。
その大法螺は、あろうことか「イカ天」の公式本にも載って、
記録として残ってしまっている・・・。

で、肝心の僕らの演奏は、
あっというまに赤ランプが4連発でカットされた・・・。
審査員の評価は、全出演バンド中最低!
「スベっている」
「よく予選通ったよねって感じ」
「引っ込んでて欲しい」
「練習スタジオでやってる事を、そのままここに持ってきて欲しくない」
「客観性が無い」
とケチョンケチョンだった。
畜生、吉田建の野郎!ハゲのくせに!
Mムラくんのギターだけ
「ちょっとカッコイイような手触りがあったけど」
って褒められた。
まあ、フォロー担当の萩原健太が、
無理矢理見つけてくれた「いいところ」ではあったけど。
同窓生でレコード会社に就職した奴が
「出演おめでとう!」と言うファックスを送ってくれたのが余計悲しい・・・。
ちなみに、その日の新聞ラテ欄の煽りは
ラッシャー木村、大激怒!」
と書いてあった。
あれはもしかして、僕らが怒られる予定だったのだろうか?
でも別段、怒られはしなかったけどなあ。

ラッシャー木村は大人しいおじさんだった。

その横のゲスト審査員席にはナンシー関
テレビ番組の評論で有名な彼女だったが、
実はあれが数少ないテレビ出演だったらしい。
ナンシーさんには、特にほめられもけなされもしなかった。
テロップで、
次にやる予定のライブの宣伝
(対バンはマリア観音ー後に彼らも「イカ天」に出る事になるー、
琴桃川凛コンチネンタルキッズ!そうそうたるメンツで緊張した)
をして貰えたのが、唯一の救いである。

ちなみに、あの大島渚も同じ放送日に出演していた!
映画監督ではなく、みうらじゅんのバンドである。
審査員には

裸のラリーズっぽい」

と大絶賛!
演奏が強制終了させられた僕らは収録中肩身がせまかったけど、
生のみうらじゅんが見れたのはよかった。
みうらじゅんさんは、後に「イカ天」のスペシャルで

「ラッパーズさんたちは本番ではイキがっていたけど、
楽屋でタイヘンいい人たちで・・・」

って言ってくれた。
だって僕ら、普通の大学生のニイチャンだもの!

未明の放送終了後、みんなでタクシーに分乗して帰った。
タクシーの中、全員無言だった。
これが、ラッパーズの初めて(そして最後)のテレビ出演の顛末である。


イカ天」に出演した全バンドの中で、
突然ダンボールが一番かっこいいよね!

ラッパーズについては

ここ にも!

ちなみに

2014年8月2日 江川 くん祭り と題して

 ビックEのライブあり!

 桜台POOL

 へらちょんぺも出る!

 マジックくんとピアニカ君で

 ビデオピープルのドキュメント のパイロット版も上映!
 くわしくは ココ