読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

pegawa's blog

昔 ピープルという ビデオレンタル屋がありました 都築さまより<a href=http://roadsidediaries.blogspot.com/2009/11/blog-post_11.html>ビデオ・スターの死</a>

レンタルビデオ物語 その10


P-MODEL 平沢進 - YouTube

 

1980年。

あの頃、女の子はみんな、聖子ちゃんカット  だった。

 

 

この年は

なんといっても『地獄の黙示録』。

カンヌ出品などということは知らなかったが

全席指定制のテアトル東京(銀座に当時あった、巨大映画館。

シネラマや70mmの大画面に対応していた)まで観に行った!

ドアーズなんて知らなかったから、

「暗い曲かかるなあ~」と思っていたら

ワルキューレにバッサリやられた!

でも、後半はさっぱり・・・意味不明・・・

後年、完全版を観て、やっと意味が分かった。

劇場で観たのは、すべての映画の中でこの作品が一番多くて5回!

 

ああこの年、

ツィゴイネルワイゼン』もあった・・

渋谷のはずれ、神社の境内、

シネマ・プラセット

(銀色のドーム型をした移動式小型仮設劇場。『ツィゴイネルワイゼン』の制作でもあった。

このドームで単館上映するスタイルで異例の10万人を動員したんだ!)で鑑賞。

アングラ演劇などちーっと知らない子供の、初プチアングラ体験!

水密桃を舐める舌のいやらしいこと・・・

 

後年、このアングラ作品はなんとテレビ放映もされた!

それもゴールデンタイム!

大谷直子がヌードで親指を鳴らすとコマーシャルインするかっこよさ。

 

この頃よりちょっと前、

中学生になった位から、名画座に行きだした。

今はほとんど潰れてなくなってしまたけど、

1980年代は、町のあちこちにロードショウが終わった作品を

2本3本4本5本とまとめて安い値段で観せる、

二番館、三番館と呼ばれる劇場がいっぱいあった。

トイレの臭いがたちこめる、薄汚い映画館。

 

立川に『太陽を盗んだ男』と『青春の殺人者』の2本立てを観にいったら

『青春の殺人者』は レイティング(映画倫理管理委員会による自主規制)で中学生は入れず、

ロビーで待っていた。

モギリのおばさんが、

市原悦子のシーンで「ひどい映画」とつぶやいていた。

 

結局、太陽で感動して、そのままドサクサにまぎれて青春も観た。

 

 

1980年の春に三多摩の高校生になった僕は、

平日、学校さぼって三鷹オスカーに朝から行って、

松田優作4本立て!やモンテイパイソン4本立てなどなど観た。

でも、マニアと言えるほど映画漬けではなかった。

なぜなら、1980年は

テクノブームが起こった年だからである。

 

僕もバッチリ、テクノにかぶれた。

まるで60年代のエレキブームのように。

 

まずは、中野サンプラザで開催された

ヒカシュー対P-MODEL

生まれて初めて観たコンサートが乱闘さわぎ!

 

P-MODELのファーストは

近所のイトーヨーカードに売ってなくて注文になり、

初回限定のピンクのレコードは手に入れることはできなった。

ポスターはもらったけど。

 

で、それからすぐあと、渋谷NHKホールでYMOの公演も観た。

鮎川誠がゲストで登場して、レディオジャンクを弾きまくる!!

クラフトワークも同時期。

高校生の少ないお小遣いをやりくりして、

ライブハウス通いも始めた。

 

お酒飲める歳じゃないので(お金も無いし)

一杯の紙コップ、ジュースチビチビ飲みながら。

渋谷センター街の立ち食いそばがディナー。

 

渋谷屋根裏、新宿ロフト、目黒鹿鳴館などなど。

P-MODELを新宿ロフトに観にいくと、

長髪のヒッピーに

「これ、どこがいいの?」

って訊かれたのもこの頃の思い出。

まだまだ、ウッドストックの残り香が

音楽界にあった。

 

同じ頃、パンクの嵐も吹き荒れていたけど

怖くて行けなかった。

エモーショナルマーケットとか

(主にパンクを中心として新宿JAMで開催されたシリーズ企画で、

GAUZEやGISMなんかが出ていた。

よく雑誌宝島にチェーンを振り回すGISMの写真とともに記事になっていた)。

 

 

 

1983.2.10、初めてザ・スターリンを体験した 。

立川38アベニュー

当時、ザ・スターリンの過激なライブは

週刊誌、テレビのワイドショーなどにも

取り上げられるプチ社会問題となっており、

23区内ではライブ出来なくなっていた。

 

前座はウィラード。

客層から浮きまくってる

初老のおじさんがいて、

当時噂だった刑事?と思ったけど

(ヴォーカルの遠藤ミチロウはステージで全裸になって逮捕もされた。

で、警察にマークされてるというウワサだった)

足元みたらお洒落なコンバースで、

その後読んだ宝島で

吉本隆明だと判明。

バクチクとビールが飛び交っていた。

 

同年の後楽園ホールは、チケットがとれず行けなかった。

というか、怖くて熱心にとる努力をしてなかったのかもしれない。

 

バイトもした。

中学生の時はお正月用玉子焼き工場の流れ作業。

高校生はロイヤルホストの皿洗い。

共に時給450円程度。

コツコツためて、

当時歌舞伎町の 

ロフトプラスワンがあるビルの前に

なぜかあったシンセサイザー屋に

ヤマハCS30(単音のアナログシンセサーザー)を買いに行った。

中古なのでケースはコルグのオルガンのいれもの。

配達に来た青年のことを、

「いかにも音楽やってそう」って親が言っていた。

 

そいから、高校の先輩から

テルミンフランジャー、ディレイの

「胸いっぱいの愛を」セットを買った。

「胸いっぱいの愛を」といえば、当時センター街でビデオ上映会やっていて、

そこで『レッド・ツェッペリン/狂熱のライブ』も観た。

あまりに長いドラムソロにイライラ。

セックス・ピストルズの『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル』も同じとこで。

 

今思えば脇でビデオ売ってたから、

ブート屋さんの営業だったんだろうなあ~。

当時のセンター街は新宿西口みたいなとこだったんだ。

八百屋とか果物屋がある地味な商店街。

パルコの方はお洒落だったけど。

お洒落といえば

高橋ユキヒロのブチックで

ハーレムパンツを買ったら

「そんな服着れないでしょ」と

親に言われ、泣く泣く渋谷まで普通のズボンに変えてもらいに行った。

原宿なんて、とてもとても。

 

あと、ドクターリズム55(ローランドのリズムマシーン)や

ファーストマンのシーケンサー

画期的だったローランドのドラマチックスベースライン 

(なんとケーブル線一本で同期演奏できる!)

などを、バイトで稼いだ金で買った。

楽器の練習もしないで。

 

この頃は、機械制御の演奏のことばかり考えていて、

本屋で「シーケンス」って書いてある工場機械の本まで見てた。

あと、物理部の先輩にたのんで、

当時最新鋭だったNECの

ミニコンで(当時パソコンのことをマイコンやらミニコンと呼んでいた。なぜだろう?)

僕のシンセサイザーCS30を自動演奏できるプログラムを組んでもらおうとして挫折。

 

自分でもコンピュータープログラム言語の元祖ベーシックもかじってみて、

「P-MODEL」と書いたら

永遠に「P-MODEL」が表示されるプログラムを組んでみたりもした。

ただ、操作を終わりにする暗号「エンド」を組むのを忘れていたのでストップできない!

しょうがないので電源引っこ抜いた。

こんな感じで、演奏もできなければ、機械制御もままならなかった。

 

前日行ったP-MODELのヘボナイザー

(ローランドのテープエコー RE-201 

を改造して、テープが永遠に同じ音を繰り返すマシーン。元祖サンプラー

を使用した即興ライブをこっそり録音して、

学校のお昼の放送で流したり。

嗚呼、はずかしき高校男子。

 

そんなこんなで、ほとんどこのころの映画は観てない。

 

1981年は『なんとなくクリスタル』、

1982年は『殺人魚フライングキラー』、

機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』

が公開されたらしいけど、やはり観なかった。

ガンダムなんて、トンガリキッヅ(恥かしい)に用は無い。

この頃「アニメはコドモが見るもの」で、

中学生以上の、特に男子が見るのは

すごくダサイことだった。

ガンプラなんか知らないさ。

当時コドモやオタクに大流行してたらしいけど。

僕はトンガリキッズだったからね(当時はまったくそんな自覚はなかったが)。

 

1983年公開

丑三つの村

大場久美子

観てないけど。

まあ、成人映画だったし(今はR15)。

宇宙戦艦ヤマト 完結編

昔あんなに好きだったヤマトにも、まったく興味なくなっていた・・・。

ヤマトやガンダムによる第一次オタクブームにより、

「月刊OUT」などのアニメ雑誌も盛り上がっていたらしいが、

僕はまったく興味なかった。

家族ゲーム

は後にテレビで見て衝撃を受けた。

劇場で観なかった後悔しきり。

というか、バブル前夜の映画界は地味・・・・というか低迷してた気がする?

 

嗚呼、あのころもっと名画座通ってキチンと学習していたらなあ・・・・。