pegawa's blog

昔 ピープルという ビデオレンタル屋がありました 都築さまより<a href=http://roadsidediaries.blogspot.com/2009/11/blog-post_11.html>ビデオ・スターの死</a>

レンタルビデオ物語 その16

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その年は、やたらと雨が多い年であった。

「ピープル」の経営者になって数年目。
売上はジワジワと悪くはなっていたが、それなりな毎日。


営業時間が夜中2時までだったので床に入る時間が朝6~9時だった僕は、
休みの日はいつも午後の2時3時まで寝ていた。
ある公休日の午後、我が家でいつものように惰眠を貪っていた僕を電話が襲った。
「ピープル」のバイトからの連絡!
「店が真っ暗になった!」
多少遅れる事もあったが、電気代はキチンと収めていたのでたぶん止められたわけではない。

表を見ると土砂降り!
ピープルは古い建物とはいえ、
まがりなりにも鉄筋コンクリートのビルなので多少の雨ではビクともしないはず!
いままで雨漏りもなかった。

事情を聞いてみると
「スゴイ音がして光ったと同時に真っ暗になった」
と言う。
なるほど、カミナリである。

あわてて店に駆けつけるとブレーカーが落ちていた。
それをあげると灯りは復活したのだが、
でも店のレジのコンピューター、テレビ数台、あと複数あった電光の看板類がダメになっていた。
黒い焼け焦げがあった・・・・。

レンタルビデオ「ピープル」の入っているビルは、
江戸時代作られた水道の名残である水道道路沿いにあったので、結構高台にあった。
ビル自体も細長いながら5階ぐらいの、周辺ではわりと高めの建物だったのである。
でも、まさかカミナリが落ちるなんて・・・・。
あとで判ったことだが店の前の電柱に落ちたらしい。

ビックリしてるだけでは、経営者失格である。
保険に入っていた!
いい加減ながら、店舗用の火災保険に入っていたのである。
その規約を読んでみると、カミナリにも適用される保険であった!
早速、写真を撮って手続きをしたら、幾らかのお金がおりることになった。

そこで、頭に電灯がついた!
ここでこのお金を元手に、アレを作ろう!

前大阪にいった時、繁華街のレコード屋さんで見た看板!
そう、「キングコング」が壁よじ登っているブツ!

大阪に限らず、地方都市に旅行すると絶対にある立体看板!

昔は大久保にも、男女がチューしてる噴水なんて、頭がおかしいとしか思えない看板があった。

やはり中小企業経営者の夢ではないか!
どう考えても無駄なあの手の看板!
僕は憑かれたように看板に夢中になった、まわりは全く相手にしてなかったが・・・・。
ステキなのに・・・。

数件の業者にあたってみた。
が、見積もりはおろか、どこにも相手にもされなかった・・・・。
まあ、今考えると、それはそうであろうとも思うが・・・。

フィギュアの製作をしてる身内がいることを思い出したので、
相談してみると「数千万で製作可能」という。
「製作可能」!!
ラッキー!!
これで憧れの「キングコング」が窓よじ登って、
ジェット戦闘機(できればF104)をにぎり潰している」みたいな無駄の限りをつくした看板ができる!
煙が出るギミックがいいかしら?
それとも水が出るのは?
夢は膨らむ!

降りた保険金は数十万。
制作費用は数千万。
冷静に考えればその間には深くて暗い川があるのだが、僕の目にはもう完全に見えてなかった。
と言うか、借金をしてでも作るつもりだった。
あの70年代の終わりに『キングコング』をリメイク製作したギラーミンのような情熱!
ああああ、これで、近所もしくは全国の人から後ろ指を差される立派なダメ中小企業家になれる!
「人はこうやって選挙に出るんだろうなあ」
なんて夢にウツツをぬかしていた。

しかし・・・。
ある日電話がなった。
フィギュア制作をしてる身内から、僕の「キングコング」の話を聞きつけた親である・・・。
これ以上ないぐらい叱られた・・・・。
電話では済まず、わざわざ店まで来て、絶対作らないようキツく言い渡された・・・。
残念・・・・。

まあしかし当たり前・・・。
都内にちょっとした洒落た家がたつお金で、バカな息子が、
全国から後ろ指を指されるために看板を作ろうとしてるのである!

そのときは、「わからずや」って、小学生のようにスネたが。
いま考えると、タイヘン感謝している。
だって、意味ないもの・・・。

思うに、あれが僕にとってのバブルだったんだなあ~。
でも、これが「ロックンロ-ル」じゃない?

 

レンタルビデオ物語 その15

殺してやるTシャツf:id:pegawa:20131020165035j:plain

 

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写真3円

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これじゃなんのトレナーだかさっぱり・・・・ジンメンに驚く不動明 なんだけど・・・・まだ持ってます。

 

自分が経営者となったからには、様々な試行錯誤もしてみた。
ザ・多角経営!
日経みたい!
スーツは男を変えさせる!
まずは写真のプリントビジネス!

要するに、DPEの委託で写真の現像を受けるんである。
まだまだ『写るんです』などのレンズ付きフィルム全盛時代!
多い時は、1日10本ぐらいの依頼があった。
単価が安いのでそんなに儲かりはしなかったが、
ちょっとは2階にある怪しいレンタルビデオ店に人をアゲル呼び水にはなったと思う。
まあ結局、一番現像に出してたのは、簡易カメラを持ち歩いて
バシャバシャ写真を撮りまくっていた僕であったのだけど・・・・。
のちには、時計の修理の受け付けなんてものボチボチやってた。

そういえば僕が入った時にはもうなかったけど、初代店長はコピー機を店に置いていたらしい。
80年代当時の笹塚はコンビニがほとんどなかったので、夜中などそれで繁盛してたそうだ。
まあ、10円20円の小商いであるが。

知り合いのツテで、ナゼかTシャツ販売もやった。
それも、ナゼかアニメTシャツ。
あの当時は『新世紀エヴァンゲリオン』の大ヒットで、
アニメに関心のある「普通の大人」も大分増えてきていて、
コスパというメーカーが、ちょっとカッチョイイ、
ヲタク向けというよりどっちかというとロックテイストのTシャツを販売していた。
恐る恐る仕入れてみたら、これが飛ぶように売れた!
3000円4000円5000円のものが次々に!

エヴァンゲリオン』の、例えば「殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる」ってアスカのセリフの書いてあるデザインのもの、
『エヴァ』のザコキャラ・J.A.のもの、
デビルマン』のヒロイン、美樹ちゃんの生首が飛んでいる、あの有名な一コマをプリントしたもの。
そういったデザインのT シャツが僕のお気に入りであったが、
そんなのは数枚しか売れず
(まあ、買ったのは僕と友人・・・)
一番、爆発的に売れたのは

『ガンダム』

それも緑地にザクのモノアイがプリントしてあるだけと言う、
シンプルなデザインのTシャツ!
もう売れる売れる!
200枚近く、同じ種類が売れた!

カタログ・・・というか、ただのカラーコピーをお客さんに見せて注文もとった。
予約だけで50枚とかあるブツも。
連日、「SだLだ、XLだ」と大騒ぎ。
コスパの人が直接営業にくるぐらい!
浮かれた僕は興奮して、コスパの営業マンに
2時間も3時間も「売れる売れる」と言い続けた。
確かに、あの規模(ワンルームマンション一室程度の広さ)の店で、あれだけ売れるのは珍しかったらしい。
しかし、営業の人は迷惑だったっぽい。
あとで、間を取り持った人に叱られた。

『ガンダム』Tシャツはそのうち6000円ぐらいのバッジ付きパッケージになり、
実は『ガンダム』にあまり詳しくない僕にはわからない、マイナーなキャラクターものも多くなった。
でもまだまだ売れ続けた。

しかし・・・・・。
欲を出して、トレーナーに手を出してから、
雲行きが怪しくなった。
Tシャツは委託で売れ残りは返品できたが、
トレーナーなどの高額商品は買取・・。
1着8000円近く!
で、最後の方は、カウチンとかいうカーディガンのデカイやつ!
これは2万近く!
インベーダー柄の・・・。
さすがに売れなったなあ~。
注文で受ければよかったのに、店に飾ろうと注文したのが
運のつき・・・結局僕のワードローブに・・・。
ジンメンに驚く不動明の『デビルマン』トレーナー、8000円・・・。
シャア専用ムサイの『ガンダム』トレーナー1万2000円・・・。
意外と丈夫でまだ愛用しています。
カウチンはボロボロになったけど。

他には、『ポケモン』Tシャツなんかも取り扱っていた。
そんなに売れなかったが、商店街の福引の商品にするとみんなに喜ばれた。
街の怪しい店が、世の中の役に立った唯一のこと。

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レンタルビデオ物語 14 

1995年、7月。

僕は、いきなりレンタルビデオ店「ピープル」の経営者になった。

 

その前から

「自分でやってみたいなあ~・・・」

ってボンヤリとした気持ちはあった。

若者特有のなんとかなるさ的なファイトと、

役に立たないバブル時代のイケイケな体験から、

自分でもやっていけるんじゃないかという、未成熟で根拠のない自信も。

 

 

まあ、実際は「いきなり経営者」になったわけではなく、

それなりの紆余曲折があった。

 

はっきり「何年」って事は忘れてしまったけど、80年代の終わり頃、

僕は一度「ピープル」から半年ほど離れてしまっていた。

当時の雇われ店長と折り合いが悪く、なんだかイヤになってしまったのだ。

ある日、無断欠勤したのをきっかけに、そのままバックレたというありがちなパターン。

店からの電話をとりたくなかったので、国立のアパートにも笹塚のアパートにもほぼ帰らず、

友人知人ガールフレンドの家を転々としながら、半年ほどたった頃。

どこでどうしてかは忘れたが、オーナーのTさんから

「あいつ(僕と折り合いの悪かった店長)辞めたから戻って来い。

新しくKっていう店長を雇ったのはいいが、ビデオのことを全然知らないので、

エガワ君に補佐してほしい」

という連絡をもらって、復帰したのだった。

 

それから数年働いた頃、

その「ビデオの事を全然知らない」雇われ店長だったKさんが「ピープル」を買って、

経営を引き継いだ。

「DUNE」の売上が悪くなったので閉める事にしたオーナーTさんが、

ついでに「ピープル」も手放したのだ。

都内に家1軒買えるぐらいの金額なので、当然、毎月数十万円のローン。

毎月毎月、数十万円を返済するのは、なかなかタイヘンであった。

当初、オーナー兼店長として店に出ていたKさんだったが、

しばらくするとより稼げる別の仕事に就き、流れとして僕が店長に。

まあ、その前から、実質的な仕入れなどは僕がやっていたんだけど。

 

90年代に入ってから、目に見えて、毎日マイニチ、毎月マイツキ、売り上げは下がっていった。

というか、今考えてみると、あの80年代の売り上げが異常だったんだけど。

たいした努力をしなくても、ちょっと目先の仕入れをうまくやっただけで莫大な売り上げ!

そしてこれまた、みんな気前よく延滞するので莫大な延滞金!

90年代に入ると、それがガサーっと減った。

でも、まだまだミニシアターブーム。

細かい映画作品が多いので仕入れはかさむ。

ビデオ屋はどんどん儲からなくなっていった。

そういや「ピープル」は、初代オーナーのときは株式会社、

2代目オーナーのときは有限会社ときて、

僕に経営権が移ったときには個人経営の自営業、と順調に規模が縮小していったんだった。

Kさんの「ピープル」は他のレンタルビデオ屋と業務提携するというオハナシもあったが、

それも流れた。

まあ、ケンカ別れだったようだ。

最終的に、Kさんは店を潰すことを考え始めたのだが、

そこで3代目オーナーの名乗りを上げたのが僕なのだった。

 

こうして思い返してみると、「いきなり経営者」になったわけじゃなかったね、やっぱり。

 

 

さて。

僕に同じ条件で買えるワケもなく、Kさんにはかなり負けてもらった。

頭金を数百万払うことにして(当然借金)、あとは毎月ローン。

まあ、維持を意地で成したわけである。

 

銀行回りは楽しかった。

会社勤めはもちろん、就活も未経験の僕にとって、背広を着るのはコスプレみたいで。

「ピープル」の実績を知っている近所の信用金庫は

「エガワさんが店やるんだったら、是非、融資しますよ!」

と言ってくれた。

で、公的機関に新規事業融資斡旋の書類を発行してもらい、手続きをしようとした矢先、

その信用金庫が潰れた・・・・・。

 

オハナシは白紙に戻った。

他の融資先を知らない僕は、飛び込みでいろんな銀行を訪ねまくって、断られまくった。

手詰まりになり、最終的に、音信不通にしていた親に頼んで、某大手銀行を紹介してもらった。

開口一番、その某大手銀行の融資担当者はこう言った。

「まず、うちの銀行は中小さんには融資はしないんですが・・、

まあ、○○さんのご紹介ということで」

顔から火が出る思いだった。

実際は親の紹介というよりも、親の部下だった方の紹介なのだった。

最初は一人で何とか出来るつもりだったが、結局親に頼ることになっただけでも、

恥ずかしくてイヤなおもいだったのに。

そんなこんながありつつも、公的機関による新規事業融資斡旋の書類で、融資は通った。

あとは、コネ・・・・。

 

その父の部下の人は、融資が決まった時、お祝いに店に訪ねてきたが、

あまりに小さくて薄汚れたいかがわしい店に、ビックリしていた様子であった。

アダルトを扱っていることも知らなかったようだ。

 

結局、融資してくれた大手銀行の担当者は一回も店には来なかった。

ただ、融資の担当者はアダルトをやってることは知っていたので

「もっとマニアックになったほうがいいですよ。例えばSMとか」

なんて言っていた。

SM好きだったんだろうなあ~。

 

公的機関の担当者は

ウルトラセブン』でくいついたんだった。

まあ、店には『セブン』のビデオは無かったんだけど。

 

融資されたお金は右から左に。

お金を掴む人は掴む。

 

お金の事は、思い出したくもない・・・・。

 

今思えば、2代目オーナーのKさんも、そんなに裕福な感じではなかったなあ。

初代オーナーTさんも、その後どうなったのか・・・。

「ピープル」初代オーナーTさんの時は株式会社で、

登記してある住所はお店になっていたので、

その後、税務署だの銀行だのから、

いろいろな問い合わせがあった。

どうも、どこも彼とは音信不通らしかった。

最盛期はBMWなんかに乗っちゃって、

いかにも実業家にありがちな感じだったのに。

 

兎にも角にも、僕は一国一城の主となった。

金はない!

でも気分は高揚していた。

 

The Flying Lizards - Money

フラッシュバック

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お客さんから探してるビデオがあるんだけど…と、相談された。

「ある女の子とお菓子のオハナシ」

あ、あのカルト作品、

『小公女カヌレ』だ!

早速、箱を探すと、貸し出し中・・・。

残念。

しかし、確認のため箱を手に取ってみると、

中にビデオテープが入ってる!

ラッキー!

貸し出し中の札が外し忘れだ!

でも・・・もしかしたら予約があって

他のスタッフがつけたのかも・・・

なんと言ってもこの

『小公女カヌレ』は

今、一番人気・・・。

どうしよう・・・・。

 

なんて、夢を見た・・・・。

 

当然『小公女カヌレ』なんて作品は存在しない。

一応、検索してみた。

スタッフなんてのも、10年ぐらい居なかった。

それどころか、もう店もない・・・・。

でも、そんな夢を見る。

昨日は『国際警察 ビバリーヒルズコップ4』の

ビデオテープがなくて店中探しまくった・・・。

これだって、3までしか無い。

呪縛。

アダルトもよく探す。

 

寝苦しい夜。

寝すぎた夜。

手が体の下になったり、変な姿勢の夜。

決まって、ビデオテープを探す、探す、探す。

 

整理が悪いせいもあるが、

バックヤードが狭すぎたんだ・・・。

あの小さなスペースに

なんで2万もビデオテープが入っていたんだ!

 

DVDを探したことはなかった。

小さな箱に収まっていたからかな。

 

1835番はあの映画、2006番はあのアダルト、45番のあの邦画、201番のロックンロール・・・・。

夢の中で探すビデオは見つからない。

 

イライラしてる顔のないお客さんがいる・・・。

たいてい、そこで目が覚める。

店を閉めた人はこういう夢を見るものだろうか?

 

ご飯と住むトコとちょっとの家具とビデオデッキとCDを与えてくれて、

同時に巨大な貧乏も与えてくれた、ビデオテープたち。

 

今もだれかに探してもらっていたらいいね。

 

お客さま列伝

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レンタルビデオ店は当然お客様商売。

ビデオだけあっても商売にならない、

お客様あってのビジネス。

24年もやってれば、いろんなお客さんが来た。

 

80年代初頭は

やはりレンタル料金が高かったこともあって、

銀行員とか不動産関係など、小金を持っている人たちが多かった。

みんなソフトスーツ!

80年代後半になってくると作業着姿の自営業者が増えたかな?

みんな気前が良かった!

1週間延滞当たり前!

で90年代になってくると、学生が来はじめた。

ちょっとお金持ちの地方のお坊ちゃん系。

今で言う自宅警備員な方々も多かった。

 

いろんなお客さんが居たけど、その中でも一番印象的なのは

クヒオ大佐

そう、あの伝説的結婚詐欺師の!

当時新聞やテレビなどで大きく報道されて、

本や映画にもなったあのクヒオ大佐は、

わがレンタルビデオ店「ピープル」の常連だったのである!

 

初めて来店したのは

もう20年も前のオハナシ。

入会手続きの時からイカしていた。

映画そのまま、

オハナが高く、ちょっと色白、白髪交じりの金髪、

ブランドものらしいサングラス、英語訛りの日本語。

そしてトップガンでおなじみのMA-1タイプのフライトジャケット!

自称アメリカ空軍のパイロット。

身分証明書もいかにものヤツ。

今思えば、あれ偽造だったんだなー。

っていうかアメリカ空軍の身分証明書のホンモノ自体、

見たことある人ってあまりいないんじゃないか?

 

何回か来るうちに気のいい大佐は饒舌になっていった。

で、いつの間にやら英語訛りも抜けてくる。

まあ、戦闘機と大佐が一緒に写っている写真とか見せられてるから

まったく疑いもしないし、

アメリカ土産?のリンゴやミカンも持ってきてくれるし、

延滞未払いや、未返却のトラブルもないから、

当方は詐欺師とはまったく気がつかなかった。

というかお店に実害はまったくなし!

「近頃、大佐来ないなあ~」と

思っていたら大々的に事件報道!

その時になって初めて

「あの人は、エリザベス女王の甥でもカメハメハの末裔でもなかったんだ!」

って、気がついた。

まあ、実害といえば

「基地のパイロット仲間が日本のアダルトに興味があるから、中古あったら買いたい」

と言っていたのを取り置きしてたのぐらいかな。

 

お店は2階だったので、あまり酔客が

入ってくることは無かったんだけど、

一人強烈なヨッパライが居たのを覚えている。

 

昼間は気のいい常連のオッサンなんだが・・・・

夜中はもう、いつもベロベロ!酩酊酩酊また酩酊・・・。

で、からむからむ・・。

一度、大雪の日に

やっぱり泥酔して店にやってきたことがあった。

大声でわめきたてるのだが、

何を言っているのかさっぱりわからない。

しばらく聞いていて、やっと

「タクシーを止めろ」

と言ってるんだと判明した。

それから、大雪でダレも来ないのをいいことに、

まだ30分近く大騒ぎ・・・・。

不愉快な客は他にもいたけど、

階段から突き落としてやろうかと思ったのはこの時だけだった。

人間ってホントに怒ると簡単に殺意のスイッチってのが

入ってしまうんだなあ~と思った。

だって、そのオッサン、出張料理の職人かなんからしくて、

刃物もってそれで脅してくるんだもの・・・。

なんでこんな犯罪最前線に立たなくてはいけないのか、

思い出してもサメザメと泣けてくる。

酒で、人間あんなに変わるんだ・・・・

しばらくたって、路上で生活しているオッサンを見た。

まあ、元気みたいだった。

 

「一人なのに、連れがいる人」というお客さんもいた。

ずーーーーーーーーーと、僕には見えない(というかその人以外には見えない)

誰かと会話してるのだった。

恐ろしいので会話の内容は聞きたくないんだけど、

だんだんエスカレートしていくのでイヤでも耳に入ってくるのだ。

相手はどうもお祖母ちゃんらしかった。

なんか注意されてるのか

言い返す言い返す・・・。

大きな声で身振り大きく足を踏み鳴らして!

で、カヲリが・・・・ものすごく臭い。

店のドアは開けっ放しだけど

売り場には窓が無かったから。

よく、ヲタクの人の臭いが強力と聞くけど

うちはアニメのビデオはそんなに置いてなかったので免疫がなかった。

というか、新宿渋谷の路上にいる人をも超えていた!

服もボロボロだし、履いていたものも

靴だかサンダルだか識別不能。

そういう人が、小一時間も店に居たのだった。

ちょうどJホラーブームの時で、その時来ていた他のお客さんに

「なんか怖いものないか」と

聞かれたので、

「後ろふり向いてごらん!」

って言おうかと思った。

で、そんなに強力なのになぜ追い返せないのかというと、

れっきとした会員で、

おまけに、借りる手続きをしているときは普通なの。

臭いし、目も合わせてくれないけど・・・

で、借りる手続きの時は、連れはいなくなるみたい。

また借りるのがかなりアートな文化系。

一度、ちょっと精神が病んだアート作家のドキュメント借りたときは

噴出しそうになった・・・。

もしかしたら、

あれはすべて演技だったのだろうか?

そうだったらスゲー!

人生そのものがアート?

まあ違うとはおもうけど。

この人も、まだまだ現役で笹塚界隈を徘徊してらっしゃる。

新聞紙集めが、最近のブームらしい。

 

 

90年代になったら

まったくいなくなったけど、

侠客とか極道とか言われる人々もお客さんだった。。

身分証明書を持ってないのか、

それとも見せたくないのか、

代紋の入った立派な名刺だけで入会するのだが、

彼らは意外とキチンとしている。。

まあ借りるのは、

「代理戦争」とか「頂上」とか「帝王」とかがタイトルにつく作品ばっかりだったけど。

困るのがチンのピラ。

中でも強烈なのが一人居た。

結構洋画好きで、やたらと

「この作品のテーマは?」

と聞いてくる。

まあ、こっちも勉強にはなったけど・・・。

困るのはキメて来ること・・・。

たぶん「覚醒のヤツ」を注射するか吸引するかして

来ているっぽいのだが、そういう時の彼は

何を言っているのだかまったくワケがわからない、

別世界の人間と化しているのだった。

あれは恐ろしい・・・。

まあ、そのせいで何回か、簡単に出れない場所に行ってるらしかったけど。

 

ある日、そのチンピラから電話があった。

「入院しているから見舞いに来い」

などと一人前の事を偉そうに言う。

嫌だったけど、何回も電話で大騒ぎするので「アサヒ芸能」を土産に渋々出かけた。

チンピラはけっこうシンミリしてた。

思いっきり痩せて。

結構いい年の人だったから

もう・・・・たぶん・・・・。

 

2000年代に入ると

サラリーマンのお客さんが減った。

忙しかったのか、

店が恐ろしかったのかわからないけど。

あの時代に多かったのは風俗案内所、デリヘルの送り、経営者、キャッチ、キャバ嬢なんかの、

夜の商売の人たちだった。

2005年過ぎると、そういう人たちも

田舎に帰るか歌舞伎町に家を借りるかして減ったけど。

あの当時はしょんべん横丁や歌舞伎町を歩いていると

お客さんによく会った。

あっちは労働中だったんだけど。

 

役者さんやお笑いの人たちも多かったな。

笹塚は、ああいう稼業の人が東京に出てきて最初に住むのに適してるのか?

売れてくると、もっとお洒落なとこに移っていくのだけど。

 

映画関係者も多かったけど、

新宿の「ツタヤ」ができると

そういう目利きの人たちはあっちに移っていった。

やはり、規模が大きいというかパワーがあったから。

サインがいっぱい飾ってあったなあ~。

「ピープル」は、有名人とはいえ、

お客さんにサインをねだったりするとイヤがられると思って

もらったことは無かったけど。

 

一時多かったのは

広告関係のお客さん。

彼等は電話注文が多かった。

「海の場面が多い作品」

とか漠然としたイメージを伝えてきて、

こっちにそういう作品をチョイスさせるのだ。

で40本ぐらい選ぶと

後でバイトが来て全部借りていく!

忙しくて時間がないのか、タクシー下に待たして。

どうも、コマーシャルの資料用に必要だったらしい。

そんなのが年中あった。

広告関係のお客さんがいっぱい居たときは、細かいレンタルなんて全部やめて

映像仕出し屋になろうかと思った。

まあ、あるときからそんなオイシイ仕事は、まったく無くなったけど・・・。

ユーチューブって便利なものができたから。

 

テレビやラジオの人たちは

ほとんどいなかったなあ。

気がつかなかったせいもあるかもしれないけど。

雑誌の人は多かった。

それも、やはりエロ系。

気のいい人たちが多かったなあ~。

毎回つれてくるガールが違う人とか。

 

そういえば、2丁目の人たちもいた!

なぜか、けっこう貧乏なひとが多かったけど。

2丁目じゃないけど、

女装な人もいたなあ~。

なんか家電にやたら詳しく、感心してたら

「だって、もと電気屋勤めだもの!」

って言ってから真っ赤になって

「あ、隠してたのに~~~~」って

照れてるの・・・・。

気味が悪かった。

 

以前も書いたけど、バンドマンのお客さんも少なくなかった。

90年代後半はホント多かった。

笹塚にはスタジオが多いせいもあって

練習帰りなのか、一人がくるとぞろぞろ・・・。

6 畳ぐらいしかない狭い店内に、

10 人ぐらい居るお客さんが

全員金髪!なんてことも。

あの頃はまだ茶髪ブーム前だったんで、

金髪なんてヤンキーかバンドマンしか居なかった。

で、アナーキーのファーストを

レコードプレーヤーでかけていると

レイの曲

 

「なにが日本の~」部分で

10人全員が、

 

「象徴だ!」

 

とつぶやく!

ああ、いい光景だなあと

感動した。

 

バンドマンと言えば、ライブハウスでは

お客さんと出食わすことが多かった。

ライブを観にいったらお客さんが出演してたり、

僕が出演してたら、偶然お客さんが観に来て来てたり、

いっそライブハウスで働いてたり。

ハードコアのライブに行って

ステージダイブをしようとしたら、

知り合いのお客さんと目があった時ぐらい、

バツが悪いことは無かった・・・。

まあ、0コンマ数秒のことだけど。

 

ライブハウスで

ビデオ返してくれてない人にバッタリ出食わして、もめたこともあった。

ビール一杯ご馳走されてごまかされたり、

思いっきり逃げられたり。

 

ライブハウスに限らず、お店以外の場所で

お客さんに会うと、なぜか

おどろかれた。

僕はずっとカウンターのなかにいる、っていうイメージがあったみたい。

 

旅先でお客さんに会って

ビックリした事もあった。

向こうはもっとビックリしてたけど。

それも1度や2度じゃない。

 

やはり20年以上客商売やってると、

思った以上の人と関わりができるんだなあ。

 

レンタルビデオ物語 その13

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大学2年生になった頃、

後輩に紹介されてバイトをはじめた

レンタルビデオ店「DUNE」。

その本店が笹塚にあった「ピープル」だった。

1983年ぐらいから営業してたらしい。

開店当初のことはまったく知らない。

ただ、店の引き出しに、

たぶん開店して間もない頃のものと思われる、

一枚のポラロイド写真があった。

ビデオの本数も少なくて、殺風景な店内。

なぜか、僕は閉店までその写真取っておいた。

閉店のどさくさで、どっかに無くしてしまったけど・・・・。

 

「ピープル」は当時でもかなりマニアックな品揃いの人気店で、

すでにレアビデオになっていた『死霊のはらわた』も置いていた。

僕は「DUNE」勤務のかたわら、いつの間にか「ピープル」のほうにも

手伝いに行くようになっていた。

 

まだVHSベータマックスのシェア争いに

決着がついていない時代。

「ピープル」じゃ同じ作品をVHS とベータ、

両方とも揃えていて、

それも人気の秘訣であった。

まあ、店に置いてあったほとんどのベータは、

VHS をダビングコピーしたものだったんだけどね・・・。

 

統計によると、1984年には全国で2500店舗あったレンタルビデオ店は、

1987年末には2万店舗を超えていたという。

笹塚界隈にも

雨後のタケノコのように競合店ができて、

レンタル料金は一気に500円均一まで下がった。

が、まだまだ、2泊3日が最大で、

一週間レンタルが常識の時代が来るなんて考えもしなかった。

まあ、僕には1500 円だろうが500 円だろうが、

お金を出してビデオソフトを借りるという行為

自体が感覚としてよくわからなかった。

僕にとってはビデオソフトはいつもそこにあるもので、

レンタルビデオ屋はあくまで仕事だったから。

 

景気のいい時代だったからか、

ほとんどのお客さんは仕事が忙しく、

延滞する人がタイヘンに多かった。

まあ、景気のいい人だからこそ、

小金を使える時代だったんである。

かなりの延滞金を払って

またまた借りていく。

当時人気だったビデオソフトは

ゴーストバスターズ

グレムリン

トワイライトゾーン

パンツの穴

ベスト・キッド

アマデウス

ユー・ガッタ・チャンス

さびしんぼう

ランボー/怒りの脱出

台風クラブ

パリ、テキサス

などなど。

ハリウッドの大作ソフトなどは2本3本とVHSを入荷していた。

 

ほとんどの新作、特にアクションものは

かたっぱしから借りられて、順番待ちだらけ。

基本、予約はできないシステムだったので、

一日に何度も店に足を運んだり、

店に一時間おきに電話をかけてきたりするお客さんもいて、

バイト仲間ではこっそりそういう人たちを

「新作ゾンビ」と呼んでいた。

 

アダルトも百花繚乱!

メーカーは次々と増え、

仕入れたハシからレンタルされる!

棚のビデオケースが

ぜーんぶ「貸出中」なんてことも!

圧倒的に需要と供給のバランスがおかしかったのである。

だって、いままでテレビ放送しか見ることができなかったテレビで、

肌色が多いものが観れる!

これが、どんなに画期的なことか!

お父さんかお祖父ちゃんに聞いてごらん!

まあ、実際僕は家庭では

一回も観たことないけど・・・(V&Rをのぞく)。

 

ほぼ6畳一間しかない狭い売り場の店に、

店員2人詰め込まれテンテコマイで働いていた。

昼12時から夜中2時まで!一日14時間はザラ!

週7日ぶっ通し、休みなしで一ヶ月ぐらい働いたときもあった。

僕の時給も上がって800円ぐらいになっていたので

ある程度のお金はあったはずだが、

夜中にごはんを食べようと思ったら

当時まだまだ高かったコンビニ弁当

(ホンモノのビール付き、発泡酒

存在しなかったんだよ!)で1 回

2000 円ぐらいかかったし、

よく人に奢ったりして、

全然お金残らなかった。

深夜までバイトして外に出てみても、

その頃にはいまみたいに朝までやってる

居酒屋なんてなかったから、

友達が来るとコンビニ行って、

5000円以上は買い物してたような気がする・・・・。

ああ、あぶく銭。

まあ、一生懸命稼いだお金だったんだけど・・・。

なんか思いだしてるとイヤになってくる。

あの頃延滞金払ってた人もそうなんだろうなあ~。

 

まだ僕自身はビデオデッキを持ってなかった。

ハイファイはまだまだ10万円以上はしていたから学生には高嶺の花。

仕事中も店が忙しいから観れず、

休みもあまり無いから劇場にも行けず・・・・。

たぶん、あの頃のレンタルビデオ店で働いている従業員は

ほとんど映画を観てなかったのでは?

サンプルなんて存在しないし、

仕入れ値が一本2万近くしてたので、

同じタイトルを2本以上仕入れることは

ハリウッドの大作以外ほとんど無かったから、

借りて帰るなんて新作はもちろん旧作も無理だった。

たとえ家にデッキがあったとしても観れなかっただろう。

 

そういえば、レンタルビデオが人気になる前は貸しレコードが人気だった。

80年台初頭は町のアチコチに小さな個人店の貸しレコード屋があって、

高校生時代は国分寺の店によくバイクで行ったものだ。

そこは、ラフ・トレードレーベルなどマニアックなインディーズの輸入盤や、

日本の自主制作レコードなどアングラなものもレンタルしていた。

1980年代後半、気がついたら、

町から個人経営の貸しレコード店はほとんど消えていたのだけど。

 

レンタルビデオの人気は永久に続くだろうという

根拠の無い思いがあった。

そんな、皆が地面から3ミリほど宙に浮いていたバブル時代。

LDやVHDなんていう新しいメディアもビデオテープの前では敵ではなかったし。

ビデオテープは簡単にダビングできるのも、人気の秘訣だったと思う。

実際、人気の新作を借りる順番待ちが面倒くさくて、

新作ほぼ全部ダビング依頼するお客さんまでいた!

 

そんな20歳ぐらい。

ほぼバイトバイトバイト!

気が付いたら、国立のほかに笹塚にもアパートかまえていた。

家2個あったんだ!!

あんなに働いても働いてもお金が無いはずだ!

それは、バイトしてもしても追いつかない・・・・。

 

それから、少し経った頃、僕は笹塚「ピープル」本勤務になった。

昇進だったのか、単に人がいなかったのか。

仕事の忙しさは「DUNE」とはダンチだった。

 

もう、すでに笹塚「ピープル」はマニアックな品揃えの人気店だったのである。

これ大事な点なのでもう一回言いました。

だって、1980年代だよ!

まだまだ、インターネットも無い時代。

ユーチューブも無いし、アマゾンもない!

テレビだってブラウン管!

電話機だって、まだまだダイヤル式!

そんな時代になかなか先見の明。

ミツバチのささやき

フリークス

勝手にしやがれ

ルイス・ブニュエルの黄金時代

などをそろえていた。今でもなかなかのラインナップだと思う。

だって、一番人気あったのは『トップガン』の時代だよ!

まあ、「ピープル」でも大人気だったけど・・・。

何十本(何百本?)ダビングしたことか・・・・。

当時の独身サラリーマンやボンクラ大学生の2人のうちひとりは

トップガン」のビデオもってたんじゃないかな?

まあ、想像だけど。

 

何年か「DUNE」と行ったり来たりしながら、

気が付いたら、「ピープル」の店長になっていた。

 

元号が昭和から平成に変わった時のことは、よく覚えている。

朝、元号が変わることを知って、

休みだったのを慌てて店に駆けつけた。

案の定、大忙し!

あの狭い店に昼間から、常時10人以上のお客さん!

そんなクソ忙しい時に一見のお客さんが

「お勧めは?」

と聞いてくるので

「家でテレビでも見てれば?」

と半ギレで答えたりして・・・・。

 

その頃は半日、半日、通し、休み、

みたいな勤務形態。

「学校?ああ・・・そんなものも・・・」

って感じで、大学にはまったく通ってなかった・・・・。

市ヶ谷にはタマに行ったけど。

なんだろう?

あの頃。

何も考えてなかったんだろうなあ。

 

朝起きて、店に行く前

必ず駅前のレコード屋に寄って、

ほぼ毎日、CD買ってた。

たまに、下北沢、新宿。

そのくらいしかお金使わなかった。

新しく買ったばかりのCDのキャラメル包装を

店でピリピリ破いて聴くのが一番の楽しみ。

そういえば、「なんのCDですか」ってお客さんに聞かれると、

どんどん貸していた。

それもタダで!

あの時お金取っていれば・・・。違法だけど・・・。

CD、半分も返ってきてないなあ~たぶん。

今、コレ読んでる人でも

「ピープル」のノロイのCDがオウチにあったりして。

 

あまり劇場には行かなかったが、

たまには友人と連れ立って、ミラノ座などに。

気持ちの余裕ができたのと、バイトのシフトが楽になったせいだった。

 

だけどまさか自分がピープルの経営者になるなんて思ってもなかった。

まあ、「なれたらいいな」って思ってなかったことも

なかったが。

まあ、その話は、また別の機会に。

レンタルビデオ物語 その12

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1984年。

晴れて大学生になった僕は、バイトを始めた。

お茶の葉の配達(銀座でカブに乗って、あの悪名高い豊田商事にも配達に行った)、

家庭教師(女子中学生の横でマンガ読みながら、

「法政はダサい」と罵倒されつづけるだけの簡単なお仕事)、

ピアニカ演芸、「マジック君とピアニカ君

新宿アルタ前で「お湯をかける少女工藤夕貴さんとイベント!

あと、大阪吉本、11PM。まあバイトというか、いわゆる営業)、

あとはこの頃たくさんあった、代理店関係のおいしい仕事

(クリスマスに新宿伊勢丹に集って、ワゴンを表に出すだけで、なんと一万円!!)、

などなど・・・・

いくつかバイト掛け持ちしてた中に

念願のビデオ屋さんが!

ちょうど「レンタルビデオ屋」と言う

新しい商売の形ができはじめた頃で、

僕は興味津々だったのだ。

まあ正直、やりたかったのは

ビデオアーティスト屋さんだったのだが、

そんなバイトがあるわけないのだった。

 

店があったのは立川で、

僕は大学生になったのをきっかけに

立川の隣駅の国立にアパートを借りて一人暮らしを

始めたところだったから、バイトに通うにはピッタリの条件だった。

 

レーザーディスクが出たばかりの頃で、

レンタルで貸出しもしてないのに

なぜかいっぱい店に置いてあった。

 

1984年当時はビデオの普及率も低く、まだまだ店は暇で、

一晩に客は2、3人ぐらい。

いつもやることがないので、

ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル』のレーザーディスク観てた。

今思えばたぶん、アダルトが無かったのも暇だった理由なんだろうなあ~。

 

 

ちょっと余談になるけれど、『アメリカン・サイコ』という映画をご存知だろうか。

1980年代後半のヤッピーのライフスタイルがモデルになっているのだが、

 その中で主人公が『悪魔のいけにえ』のビデオテープをレンタルビデオ屋で借りるシーンがある。

それも、とてもお洒落な行為として。

当時、日本でも入会金3000円、1泊2日1500円、延滞料1日1000円のビデオレンタルは、

かなり高級な娯楽だったのである。

例えるなら、出張マッサージ? 我が家に映画館がやってくるのだから。

ビデオレンタルすることが、富の象徴みたいなとこもあった。

数万の延滞金払うのは当たり前?

まあ、立川ではそんなフトッパラなお客はいなかったけど。

悪魔のいけにえ』も置いてなかったし。

 

この年は『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー

が公開されたんだよなあ~。『マトリックス』の元ネタ。

スカーフェイス』、『さらば箱舟』も。

しかし、独り暮らしを始めたばかりで、テレビも新聞も無い生活をしてたから

なにも知らなかった。雑誌も買わないし。

当然ビデオデッキも持ってない。

横道世之介』みたいな時代。

あっちはちょっと後、1987 年が舞台だけど。

しかも『横道世之介』は1K 風呂トイレ付き、

かたや僕は4畳半1間、トイレ・シャワー共同。

学校も同じ法政とは言え、彼は市ヶ谷、僕は1984年にできた多摩のめじろ台校舎。

 

この年にはザ・スターリン(対バンはP-MODEL、分裂ガガーリン)を観に

横浜国立大学に行った。

国立の一ツ橋大学でフールズ、有頂天を観たのもこの頃。

明けて1985年の1月15日には法政大学「LE NOUVEAU MONDE」 

(出演:アレルギー、メトロファルス、U-CO BAND、平沢進ユニット)

で、マイ成人式を迎えた。

ビデオデッキは1985年にやっと10万円ジャストの商品が出た。

当然、ハイファイではない。

そして当然、僕には買えなかった。

 

1年生の頃は、あまりバイトもしてなかったので、暇だった。

立川の店も辞めた。

というか、暇すぎて、おヒマを出された。

最後までレジの打ち方よく分からなかった。

オマケに店の名前も覚えてない・・・。

2階にあったような・・・・。

 

2年生になったころ

後輩にバイトを斡旋してもらった。

こちらが出した条件が

「重いもの持ちたくない」

「洗い物したくない」

「楽なほうがいい」

という虫のいいものだったが、それでもバイトがあるのがバブル前夜のこの時代。

 

で、新しくオープンするレンタルビデオ屋を紹介してもらった。

上北沢にあった「DUNE」という店だった。

砂の惑星』・・・・1984年の映画から拝借したっぽい。

ナウな名前だったのだろう。

 

僕はまだ国立に住んでいて、

上北沢でバイトをすると自分のアパートに帰るには終電に間に合わないので、

仕事を紹介してくれた後輩の家に居候を決め込んだ。

その後輩は幡ヶ谷のマンションにイトコとくらしていたのである。

学生が住むにはちょっと大きな間取りではあったが、だとしても、

考えてみれば、ものすごい迷惑なオハナシ。

 

そのマンションから店で支給されたスクーターで通勤。

ちなみにスクーターは当時流行ったDJ-1

スクーターの癖にけっこう早い!

幡ヶ谷の後輩のマンションから、

上北沢の「DUNE」まで行って、

昼12時に開けて、

14時間ビデオ屋営業、

深夜2時閉店して、

社長が待つ笹塚のスナックに行き、

売り上げを渡し、

ご飯を食べさせてもらったら、

もう午前3時。

後輩のマンションに帰り、シャワーを浴びて、寝て、

また11時ぐらいにおきて、上北沢「DUNE」。

 

デッキの普及率も上がってきたのか、

他のビデオ屋は結構繁盛してたようだったが、

「DUNE」は客商売的には不利な2階だったので

オープン当時は暇であった。

アダルトもあったので

ぼちぼち忙しくなっていったが。

そうそう、『悪魔のいけにえ』もちゃんと置いてあった!

 

陳列棚の後ろがかなり広かったので、

仕事が終わっても仲のいいバイトとそこでダラダラだべっていた。

相変わらず、ビデオデッキは持っていなかったので、

店のビデオソフトを借りて、家で観たりはできなかった。

一応、お店にモニターテレビなんかはあったが、

画面を店外に向けた仕様だったので、やはり鑑賞するのは難しかった。

だけどその後、他のバイトが持ってきた要らないテレビをカウンターの下に押し込んで、

やっとゆっくり観れるようになったのはうれしかったな。

 

私用の長電話よくしてたダメバイト。

当時は携帯電話なんか夢のまた夢!

国立のアパートの電話は最初、大家さんの呼び出しだった!

その後、大学の生協で買ってつけたけど。

アパートにほとんど帰らないので、留守番電話を奮発した。

カセットテープ2台使って、外出先からも付属の発信機を使って操作できる、

当時としては最新式!

うっかり発信機なくしてしまったので、その音を録音したテープをつくり、

小さいラジカセで操作したりした。

懐かしいなあ。今のヤングにはサッパリ解らないだろうが。

 

 

上北沢の店の一階は八百屋さんで、

僕は仕事しないで馬鹿話をよくしていた。

昔の話なので記憶があいまいであるが。

浮かれた時代だったなあ。

まあ、僕も若くてフワフワしていたし、

世間もバブル前夜で浮き足立っていた。

 

まあそんな感じで、僕のレンタルビデオ屋修行はスタートした。

そして、この「DUNE」の本店が、

のちに僕の人生の大きな部分を占めることになる、

笹塚のレンタルビデオ店「ピープル」だったのだ。